お盆真っ最中の14日
朝の通勤時間帯も車の数は
いつもの平日よりも激減していました
今日はお墓参りのお宅も多いと思います
久しぶりに帰省してきた家族と共に
いつもはひっそりとしているお墓も
今日は賑わいますね(^-^)
今日は昨日のブログの続き
柏崎を後にした私は一路新潟県の内陸へ
向かった先は小千谷
そして目的地はピンポイントでこのお寺
慈眼寺 ここは越後長岡藩にとって
歴史の転換点となった
ある会談が行われた場所だったのです
奥に見える間が
その歴史の一部始終を見守った間です
『小千谷談判』
慶応四年五月二日
長岡藩家老・軍事総督 河井継之助と
西軍軍艦 土佐藩 岩村精一郎が
ここ、慈眼寺の会見の間で会談を行いました
岩村は当時若干24歳
尊大な態度をとる若造に、42歳の河井は
内心腹を立てながらも
藩のために掛け合ったのでした
幕末にあって河井の率いる長岡藩は
薩長を中心とした西軍にも
会津などの奥州列藩同盟の東軍にも
組せず、中立の立場で
両者の仲介役になろうとしていました
しかし、岩村は最初から
河井のことを信じてはおらず
会談は一方的に30分で打ち切られ
河井が持参した嘆願書も受け取らずに
席を立ったのでした
左 河井 右 岩村の肖像画です
この小千谷談判の決裂により
河井は西軍と戦うことを決意したのでした
慶応四年五月二日 この会見の間が
熾烈を極めた戊申北越戦争の
幕開けだったと言えます
後日談として、小千谷談判に西軍は
岩村のような者を送り込んだことを
大変後悔しました
政治や駆け引き、人を見る目も
分からぬ若造が河井にとった行動の結果
その後の北越戦争で
西軍はあまりにも大きな代償を
払わねばならなかったのでした
もしも...もしも、小千谷談判に西軍が
山縣有朋や黒田清隆を送ったとしたら
歴史はどう変わっていったか...
たらればの話しは
このへんでやめましょうね(^-^)
誰もいない会見の間に一人座り
歴史の分岐点だった空間に
自分がいる不思議に
鳥肌が立ちながら
長い時間をすごしていた私でした
小千谷を後にし、向かったのは長岡市
会見の間が計算以上に
私を引き留めて放さなかったので...
時間が無い!
ここもピンポイントで目的地に到着
長岡市の河井継之助記念館
なぜ、長岡市のと説明するかというと
会津にも只見町に
河井継之助記念館があるからです
長岡の記念館は初めて伺いました
撮影は銅像とガトリング砲のみ
許可をいただきました
ガトリング砲は当時
日本に3門しかありませんでした
そのうち2門を河井が購入
河井継之助という天才は
先を見越した投資が出来る男でした
その後越後長岡は敗戦
負傷した河井は会津を目指して
八十里越えを経て
会津領塩沢村、現在の只見町へ
そしてついにそこで
命尽きたのでした...
只見町での河井継之助の跡はこのブログでも
何度か書かせていただいたとおりです
記念館でいただいたうちわを眺めながら
感慨にふけっていた私
雪が来る。もうそこまできている。
あと十日もすれば北海から
冬の雲がおし渡ってきて、
この越後長岡の野も
雪でうずめてしまうにちがいない。
(司馬遼太郎 峠より)
ふと、時計を見ると...
あー!やばーい!!!
友達との約束は会津若松駅に6時
今は3時半(>_<)
誠に不本意ながら、高速を使って
会津若松に急いで帰らなきゃ!
以上、休日ドライブを満喫したこの日の私でした(^-^)/
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