2012年9月アーカイブ

9月29日の会津は

白い雲に覆われていました

今日は 9月最後の鶴ヶ城撮影に行ってきました

もみじの葉は

120929もみじ.JPG

まだ青々としています

これからじっくりと色付き始める秋の会津です♪

さあ!ここからは

9月最後の鶴ヶ城!

雲に覆われた秋の鶴ヶ城を

今回も言葉は不要でお送りします!

どうぞ

(#^.^#)

120929西出丸.JPG

120929公園.JPG

120929鉄門.JPG

120929本丸正面.JPG

120929本丸.JPG

120929北出丸.JPG

いかがでしょうか(#^.^#)

これから秋に向かう鶴ヶ城

10月は、更に綺麗な景色を

紹介できますね♪

以上 9月最後の鶴ヶ城でした

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1915年(大正4年)9月28日

97年前の今日

一人の武士が 72年の生涯を閉じました

『斎藤 一』

新撰組 副長助勤 撃剣師範

三番隊組長

会津戦争時 新撰組隊長

 

これまでのブログで

彼の事をたくさんお話ししてきましたので

皆さん よくお分かりのお人ですね

今日は黙って 墓前に深く深く合掌

120928斎藤一墓.JPG

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暑くて長かった今年の夏

やっと終わって

ちょっとひと息の会津

これからどんどん

秋に向かっていきますね

 

秋のよいところ

たくさんありすぎて

パッとあげられない

 

会津の秋を探しに

出かけて見ますか!

ちょっと角度を変えて見ると

今までと違った秋を

発見出来るかもしれませんね

 

今年の秋は

ひと味違った会津の秋を

見つけて来ますね!

お楽しみに♪

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幕末へのタイムスリップの最終話のアップを終え

達成感から ぼーとしていた9月22日の私

 

は!ぼーとしている場合じゃない!

今日は あの日だー!

 

私は 気持ちをキリッモードに切替えて

急いで目的地に向かいました

キリッ ( ´)

 

この日は私の大好きなあの方

ブログを見てくれていた方は

薄々気付いていると思います

 

新撰組三番隊組長 斎藤一さんの法要

『斎藤一忌』が行われたのでした!

 

場所は七日町駅前にある阿弥陀寺

12.922新撰組まつり旗.JPG

新撰組まつりの旗が並ぶ道路をテクテク歩くと

阿弥陀寺入口に看板が

120922会場看板.JPG

ドキドキしながら中に入り 法要前にお墓にお参り

120922斎藤一墓.JPG

そして、廻りを見渡すと‥

開始40分前に関わらず多くの方々が

120922観客.JPG

遠く日野や岡山から新撰組同好会の方々も

駆けつけてきてくれていました

120922新撰組同好会1.JPG

120922新撰組同好会.JPG

予定より10分遅れて斎藤一忌が厳かに開始しました

七日町青年会長さんが三度鐘を付き開始の合図

120922鐘.JPG

 

なんと、斎藤一さんのひ孫様がいらっしゃってました!

ご挨拶なされているひ孫様です

120922斎藤一ひ孫.JPG

ご挨拶をお聞きしながら

私の頭の中は別の事を考えながら

お孫さまにぼーと見とれていました

『あー!やっぱり斎藤一は実在の人物なんだ!

確かに144年前 会津に斎藤一は実在していたんだ!』

 

当たり前の事なんだけど

こうして血縁の方を拝見してあらためて

そう思いながら感動感激していました

 

この日はなんと

土方歳三さんのご子息の女性も

参列してくださいました

あまりにも嬉しかったので

お二人のお写真を合成させていただきました

120922ご子息小.JPGお二人とも凛々しくて渋くてかっこよくて

美しくてとっても素敵でした

144年の時を越え、斎藤さんと土方さんの血が

ここ会津で再会している現実に

震えさえ起きる感動を味わいました

 

来賓のごあいさつが終わり

法要開始

120922法要.JPG

私も 目をとじながら

静かに合掌しました‥

 

法要終了後 斎藤さんの流派と言われる

無外流などの剣舞披露

120922無外流1.JPG

120922無外流2.JPG

120922なんたら流.JPG

その後 一般焼香の行列が出来ました

120922焼香.JPG

私も焼香させていただき

深く深く 天国の斎藤さんに

お祈りさせていただきました

 

関係者の集合写真を後ろからパチリ

120922集合写真.JPG

その後 私は なんとなんと

斎藤さんのひ孫様と

ツーショット写真を撮らせていただき

握手までしていただきました!

ありがとうございました

 

終始 厳かで静かで落ち着きのある

素晴らしい法要でした

斎藤さんの法要らしい!と感激しました

ますます新撰組が、斎藤さんが大好きになった

この日の私でした♪

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

今日はこのシリーズの最終回

 

母成峠の戦いを会津戦争の起点と数え

はや三十三日目

 

144年前の今日 会津藩が降伏し

一ヶ月間守り通した鶴ヶ城を開城‥

 

慶応四年九月二十二日に

最後の

タイムスリップ‥

 

この日の朝八時

前日籠城婦人たちが涙しながら縫った

『降参』と大書された白旗が

鶴ヶ城に掲げられました。。。

 

この日の鶴ヶ城は

火が消えたようにひっそりとしていました

誰も声を発する者などいない

悲しすぎる程静かな鶴ヶ城です‥

  

同日正午

 

会津藩九代藩主 松平容保公は

萱野権兵衛、梶原平馬、秋月悌次郎らを従え

麻裃(あさかみしも)に刀も帯びず

降伏の場に赴きました

20120722開城式場所.JPG

甲賀町通 この道路で降伏式が行われました

 

~その日の悔しさを八重さんが後に話してくれました~

 

『当日のことを思い出すと

私は残念で悔しくてなりません

 

私が一番悲しかったことは

容保公が降参に出られる時

大小の刀を差さず丸腰で、お供も少ししか

つけずに出られたことでした

 

武士が丸腰で出るなどということは

無かった時代です

 

容保公が丸腰で出られたことは

断腸の思いだったと思います

 

容保公は 供の者に サヤを抜いた

短刀を密かに持たせていました

 

もし 恥辱を受けた場合は

その場で自殺するおつもりだったのです‥』

  

 

降伏の場で容保公は

西軍の軍監中村半次郎の前で

荒筵(むしろ)に座り

謝罪文を提出しました

 

そしてこの時、西軍軍監の席には

大きな緋色の絨毯(緋毛氈:ひもうせん)

が敷かれていました

 

会津藩士らは

この日の屈辱を生涯忘れまいと

この絨毯の一部を切り取り

分け合ったといいます

 

これを会津藩士らは

『泣血氈(きゅうけつせん)』

と呼んでいます

 

その後容保公は

城内で藩士たちに

ねぎらいの言葉をかけ

 

戦死した藩士たちが埋葬された場所で

深く手をあわせた後

 

その日の夕刻 滝沢村の妙国寺に入り

謹慎の身となりました‥

120809妙国寺.JPG

その後 容保公が明治の世の

表舞台に立つことは

二度とありませんでした

 

この戦争の事について

五十九歳で亡くなるまで周囲に一切を語らず

ただ、亡くなったその日まで 孝明天皇から賜った

宸翰と御製を、肌身離さず身につけていました

 

会津が賊軍ではなかった唯一の証です

 

あまりにも犠牲の大きかったこの戦争の結果に傷心した

容保公の唯一の心の慰みだったのでした‥

120912容保公正面.JPG 

そしてお城は開城

この一ヶ月間誰ひとりとして

侵入させなかったお城に

西軍が掛け声高らかに

入城してきました 

 

八重たち会津勢は

三の丸から歯ぎしりをしながら

それを睨みつけることしか

できませんでした

 

開城時の鶴ヶ城です

ボロボロになりながらも

一ヶ月にも及ぶ籠城戦を耐え抜いた

会津の誇りです

開城前鶴ヶ城.JPG

 

城外戦を戦った会津藩兵も

開城降伏の報を聞き

次々と降伏していきました

 

最後まで戦い抜いた

佐川官兵衛も 翌二十三日

容保公が降伏謹慎した報を聞き

とうとう振り上げ続けていた

その刀を静かに鞘に納めました

 

ここに 会津は敗れました‥

 

開城のその夜八重は涙を流しながら

月に照らされた

三の丸の雑物庫の白壁に

句を書きつけました

 

『明日の夜は 何国(いづこ)の誰か ながむらん

なれし御城に 残す月影‥』

IMG_0340.jpg

 -END-

 

 

幕末戊辰会津戦争へのタイムスリップ

 今回はこれにて終了します

 

明日から会津藩士にとって

さらに 辛く苦しい人生が

 待っているのですが

 

今回のシリーズは

会津戦争の開戦から降伏開城までを

 ひとつの区切りとさせていただき

このシリーズを終了いたします

 

母成峠の戦いから三十三日

鶴ヶ城籠城開始から三十一日

 

長い長い会津の戦いが

今日終わったのでした。。。

夕焼け.JPG浅い知識と稚拙な文章で

綴り続けたこのブログを

 

長期に渡り

 読んでくださった方々

ありがとうございました

 

 たくさんの感想をいただけたことが

私の励みでした

ありがとうございました

 

さあ!続きはいよいよ本番!

来年の大河ドラマ

『八重の桜』です 

歴史は 面白い!今回、あらためてそう感じました!

 

『八重』を『会津』を

あまりにも時代の流れが速すぎた

幕末の歴史を

 

そして明治の八重の人生を

 

NHKさんがどんな風景で

どんなストーリーで表現してくれるのか

 

私も今度は視聴者として

 とっても楽しみにしています!

楽しみ方は人それぞれなのが

歴史の面白いところ

 

私も数え上げたら キリがないくらいの

ワクワクで待ってます!

 

そして、みなさんも

みなさんの好きな

会津があると思います

100人が100種類のワクワクで

『八重の桜』を待ってますよね

 

一緒にワクワクしながら

待ってましょうね!

『八重の桜』

を楽しみましょうね!!!

120906磐梯山.JPG 

一ヶ月間 ありがとうございました

ありがとうございました

 

今後もブログは

会津の今を、変わらずにお届けして

いきますので

よろしくお付き合いお願いします!

 

ありがとうございました

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 幕末戊辰 会津戦争へタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月二十一日

 

この日 会津藩主 松平容保公は

城内にいる藩士らに

明日 降伏

の決意であることを伝えました

 

 その言葉は 皆の耳を疑いました‥

最後の最後まで戦い

城を枕に殉ずる覚悟の方々ばかりです‥

 

降伏し 生き恥をさらすことなど

頭の片隅にも無かった方々ばかりです‥

 

 

憤激のあまり自刃する者‥

 

指を噛み切り、吹き出る血潮で城壁に抗議の遺書を書き 自殺する者‥

 

亡夫の遺髪を胸に抱き、お堀に身を投げる女性‥

 

 

城内の人々の心には

絶望と悲しみ 悔しさと無念に

満ち溢れました‥

120808鉄門.JPG

 

この日城内では 女性たちが

降伏の白旗を縫い合わせました

 

城内の白布は

全て負傷者の包帯になってしまっています

 

しかたなく小さな白布をつぎはぎして

作ったのでした

それを縫う女性たちの手は震え

少しも作業は進みませんでした

 

やっと縫いあがった旗は

しぼる事が出来るほど

涙で濡れていたそうです・・・

 

開城前夜

城内の藩兵は お城に光を注ぐ月を

茫然と見上げていました。。。

 

一方 城外で奮戦する佐川官兵衛は

城内がそんな事態になっていることは知らずか

この日 田島に宿陣 

会津の降伏など

頭の片隅にもありませんでした。。。

 

今日は私も藩兵の皆さんと同じく

茫然としています

 

明日が来なければいい。。。

でも、時は無情にも流れています。。。

 

悲しい悲しい144年前の今日

鶴ヶ城の九月二十一日でした。。。

 

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月二十日

 

降伏の使者として薩摩藩などへ出向いた秋月悌次郎らが

降伏の条件

(「降参」と書いた白旗を大手門外に立てる等)

を持って帰城してきました‥

 

一ヶ月続いた籠城戦の終焉が

近づいています・・・

 

 籠城戦最後の日まであと二日と

近づいてきました‥

120903カラス.JPG 

今日は 開城する前に

最後の人物探訪をしてきました 

 

会津を語る上で

絶対にご紹介しなければならない方です

 

実はホントは インタビューさせて頂こうと

マイクを持ってお伺いしたのですが...

 

ご本人の目の前に立ったら

美しすぎて...その高貴なオーラに圧倒されて...

私 一言も言葉を発せられませんでした

 

この方は、本物のお姫様でした

美しくて 高貴で 優しくて 強くて

会津のみんなの憧れ

籠城婦人の 心の支え

 

直接お話しをお伺いすることが

私にはどうしても出来なかったので

 

今日はこの方の人物探訪という形で

ご紹介させていただきます

 

もうお分かりですね

最後の人物探訪はもちろん

この方を迷わず選ばせていただきました

 

容保公を支えた会津のお姫様

美しく気高く優しく

そして強い方 会津の姫

 

★『照姫』

 

松平照

 会津藩の支藩上総飯野藩

藩主保科正丕(まさもと)の三女として生まれた彼女

10歳で会津藩八代藩主容敬(かたたか)公の養女となりました

 

18歳の時に嫁ぎましたが23歳で離縁

江戸の会津藩邸に戻りました

 

その頃藩主 容保公の正室 敏姫が

わずか19歳で他界してしまったため

照姫は江戸藩邸の奥向きを担いました

 

血はつながっていませんが

容保公と照姫は姉弟になります

 

容姿端麗で、書道や茶道、礼法などにも通じ

書や和歌も好む とっても素敵な女性でした

容保公も、照姫から手ほどきを受けていたそうです

 

京都守護職時代、容保公は孝明天皇から

純緋の布を頂きました

(とっても異例なことだったみたいです)

容保公はこの布で陣羽織を仕立て

その写真を撮って 江戸の照姫に送ったそうです

 

きっと容保公も、この美しく優しい義姉を慕い

頑張っている自分をほめてもらいたかったのかな

『えっへん!すごいだろ!お姉ちゃん

僕、京都で頑張ってるよ!』

みたいな気持ちだったかも

 

鳥羽伏見に破れた後

会津藩邸の総引き上げに伴い

慶応四年の春に照姫も初めて会津に入りました

きっと 見知らぬ土地に入ることに

不安もいっぱいだったでしょうが

120910走り長屋.JPG照姫は会津のアイドル

 

照姫のお国入りの際は

会津は大フィーバーだったのでは!

きっと 本人もびっくりするほど

大歓迎されたのではないでしょうか

 

そして‥慶応四年八月二十三日

鶴ヶ城籠城戦が始まりました

 

ここで 照姫はすごい能力を発揮

 

会津藩婦女子五百人余りを総指揮し

傷病者の看護、炊事、洗濯、消火活動から

はたまた城内に打ち込まれtた弾丸の処理や

さらには弾丸の製造にもあたり大活躍しました

 

籠城戦がこれほど続けられたのも

照姫を中心とした婦女子達の

活躍があってこそなのでした

 

開城後 照姫は容保公らと共に妙国寺に謹慎

その後 東京に護送となった容保公でしたが

照姫はそのまま妙国寺で冬を越し

翌年 東京の紀州藩邸に預けられました

 

同年五月 会津戦争の責任者として

萱野権兵衛に『斬に処す』(打ち首)が決定

切腹さえも許されない屈辱的な沙汰です

 

皮肉なことにその執行は 照姫の生まれ故郷

飯野藩主 保科正益(まさあき)~照姫の実弟 

に申し渡されました

 

それを知った照姫は

一死をもって会津藩を救おうとする

忠臣 萱野権兵衛に親書を送るとともに

次の歌を詠み 切ない自分の心を伝えました

 

『夢うつゝ 思ひも分かす 惜しむそよ

まことある名は 世に残るとも』

 

余談ですが、照姫の弟 保科正益は

『斬首』と命じられながら

密かに萱野権兵衛に切腹をさせてくれました

 

萱野権兵衛に

罪人としてではなく

武士として 最期を

しっかりと まっとうさせてくれました

 

さすが照姫の弟さん

ありがとうございます

 

その後照姫は飯野藩の預け替えとなり

二十数年ぶりに実家の藩邸に戻りました

弟 正益は照姫の孤独な心を心配し

海を一望できる場所に邸を建ててくれました

重ね重ねありがとうございます

 

照姫は 明治十三年に一度 会津を再訪され

東山温泉に泊まり 次の歌を詠んでいます

『岩くだく 滝のひびきに 哀れその

むかしの事も おもひいでつつ』

 

この句の「むかしの事」に 婦人五百人を指揮し

命がけで戦った籠城戦のことを

思い出していたんだと思います

 

照姫は明治17年に、東京でその生涯を閉じました

享年五十三歳

 

美しく 優しく 気高く優雅で聡明で

そしてここぞと言うときには凛とした強さを持った

本当のお姫様

 

まぎれもない、会津の大切な大切な

お姫様

 

会津最後のお姫様は今 会津若松市

松平家の墓所に眠っています

 

   

 長かった会津の戦いも あと 2日

あと2日 頑張って書きますので

ここまで来たら 最後までお付き合いくださいね

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十九日

 

降伏に向けた動きが加速している144年前の今日です

秋月悌次郎はこの日 薩摩・土佐の両本営において

降伏を申し入れました

具体的な降伏条件の交渉を開始しています

 

その頃城内

容保公は重臣らに降伏の決意を伝えていました

120831緑の中の鶴ヶ城.JPG城外では佐川官兵衛を始めとし

いまだ西軍と戦っている藩士も多く

 

城内でも家老 梶原平馬を筆頭に

なお徹底抗戦を唱える

重臣も少なくありません

 

もちろん 容保公の決定には

反対者が続出でした

でしたが‥

 

容保公は

『みな、会津のため、私のために戦ってくれた

父は傷つき 子は討ち死にし 骨は地に積まれ

血は川となって流れている

もはやこれ以上は見るに忍びない

もし、みなが、なおも西軍と戦うというのであれば

私ひとりでも降りるつもりである』

 

と言いきりました

 

藩主にそこまで言われたら

家臣達も何も言えません

やむなく降伏を承知したといわれています

 

 

一方この日も 城外では‥

城外の佐川官兵衛はこの日も戦意は一向に衰えず

120903大内宿.JPG大内村に諸隊を集合させ

『まだまだ 戦いはこれからじゃー!』

兵たちに更なる奮励のゲキを飛ばしていたそうです・・・

 

 

降伏後の 後日談

★家老 佐川官兵衛の慟哭

 

開城降伏後の翌年 西軍は

容保公の恩赦と引換に

 

会津戦争の首謀者として

三家老(田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛)

に死罪を申し渡しました

しかし 田中と神保は西軍が城下に突入した

八月二十三日に既に自害しています

 

結果 萱野権兵衛が

この戦争の首謀者として

罪を一身に背負って死にました

 

そのことを聞いた佐川さんは

こう憤ったと言われています

『なんで萱野殿なんじゃ!

徹底抗戦の一番の首謀者なら

このわしじゃろうが!

 

わしこそが 死ぬべき男じゃろうが!

責任とって死ぬなら わしでいいだろうが!

 

萱野殿の殉死の上に

わしはおめおめと生きている訳にはいかん!

殺すなら 俺を殺せー!!!』

心からの叫びでした‥

 ‥

『‥所詮 わしはこの戦争の土壇場で

見かけの石高が上がっただけの下っ端家老‥

こんな命を投げ出したところで

なんの足しにもならぬのか‥

わしは何の役にもたたぬのか‥

萱野殿 申し訳ない‥』

 

佐川官兵衛は静かに

涙したそうです‥

 

以上 開城三日前

静かに終焉に向かう

会津藩でした。。。

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十八日

  

先日、降伏を決意した容保公

城外では そんな藩主の心の中を知る由もなく

まだまだ激しい戦いが続いています

 

★高田の戦い

高田を本営としてゲリラ戦を戦っていた佐川官兵衛に対し

この日 西軍は高田を攻撃しました

120904高田.JPG三方から攻撃を受け 会津はこの戦いに敗戦

佐川官兵衛は兵をまとめた後

大内村に転陣しました

まだまだ 戦う気充分な鬼カンです

 

 しかし。。。

高田は 会津藩と外部との唯一の連絡路でした

外部からの情報は、ここを通って

城内に伝えられていたのです

ここを奪われたということは‥

120904伊佐須美神社.JPG

高田 伊佐須美神社

 

会津藩は先日の食糧補給路に続き

情報のルートも絶たれてしまいました

文字通り 完全に孤立したのでありました・・・

食糧も情報も遮断された鶴ヶ城です。。。

 

 

その頃 政局にも動きがありました

降伏を決意した容保公の君命により

米沢藩本営に出向いた使者が到着

降伏を申し出ました

 

それにより秋月悌次郎らが

城下の薩摩藩本陣に連行

会津降伏の条件交渉のためです 

 

降伏開城が刻一刻と近づいている

城内の政局です

 

 

 

★人物探訪 西郷頼母~したかったのですが‥~ 

西郷頼母(たのも)

会津藩代々の家老の家に生まれ

西郷頼母近悳(ちかのり)さんは

九代目の家老です

『八重の桜』では

西田敏行さんが演じる重要な役割です

 

終始恭順を唱えた頼母さん

そのために家老職解任・謹慎などの

罰も受けましたが 戊辰戦争で復職

 

白河口総督として

白河城で西軍を迎え撃ったりしました

 

正直言わせてもらいますね‥

会津戦争を語る上で この方の紹介は

避けて通れないのですが

 

歴史的な見識の浅い私には

この頼母さんのことを

どう伝えればいいのか

正直 自信がありません

 

どの角度から 頼母さんを伝えるのが

一番正しいのか

私には難しい人なのでした‥

 

ですので、このタイムスリップシリーズでは

彼の人となりや当時の活躍などの

紹介は控えさせて頂きます

 

来年の『八重の桜』でNHKさんが

どんな西郷頼母さんを

西田敏行さんを通して

見せてくれるのかを

楽しみに待っていたいと思います

  

以上 完全に孤立した鶴ヶ城

政局的には降伏に向かっている鶴ヶ城

しかし 藩士の士気は今だ衰えず

徹底抗戦の構えを崩さない鶴ヶ城の九月十八日でした 

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十七日

 

この日鶴ヶ城籠城戦を維持するためにどうしても

落とせない戦いがありました

  

★一ノ堰の戦い 

 

その頃の会津軍は、「鬼カン」佐川官兵衛の精鋭部隊が

鶴ヶ城の外でゲリラ戦を展開しながら、鶴ヶ城南方に

食料の補給路を確保していました



山本八重の父 権八も西軍の総攻撃を食い止めるため

玄武隊士中隊(50歳以上の藩士で構成する老人部隊)

の一員として出陣し 鶴ヶ城南部で転戦していました

61歳の山本権八は、老体に鞭を打っての出陣といえます

 

一方 総攻撃により 鶴ヶ城の外郭を突破した西軍は

会津藩の食料補給路を断つため

鶴ヶ城南方へ出兵しました

120901一ノ堰平野.JPG

一度目の攻撃 九月十五日は

他の会津軍も援軍に駆けつけ

会津軍は西軍を退けることに成功

 しかしこの日の戦いで会津軍は一瀬要人をはじめ

多くの指揮官を失っています



十五日は、会津軍の猛反撃に敗走した西軍でしたが

このまま会津藩の食料補給路を放置するわけにはいきません

 

そして 144年前の今日 慶応四年九月十七日

再び鶴ヶ城の南方へと攻め入りました


進軍した西軍は 一ノ堰に布陣している会津軍を発見

二手に別れて会津軍を挟み撃ちにしました

120901一ノ堰光明寺.JPG食料の補給路は会津藩の生命線です

会津軍は必死に抵抗しましたが、激戦の末、敗れました

 

八重の父 権八も この戦いで戦死してしまいました

戦いの場 一ノ堰 光明寺に彼の墓があります

120901山本権八墓.JPG会津藩はこの「一ノ堰の戦い」でさらに多くの指揮官を失い

大きなダメージを受けました

 

また 会津藩は この戦いの敗戦により

食糧補給路を絶たれてしまいました。。。

 

 

そしてこの日 城内 会津藩主 松平容保公は

重い重い決断を下しました。。。

 

★容保公の決断

 

先日 西軍参謀 板垣退助が米沢藩を通し

進言した 降伏勧告

 

会津藩主 松平容保公はこの日 悩みに悩んだ末

結論を出しました

 

『開城 降伏する』

 

こう決断した容保公は 降伏の使者を米沢に送りました

籠城二十六日目...

容保公 悩みに悩んだ末の

苦渋の決断です。。。

120910本丸.JPG

 

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十六日

 

 西軍の鶴ヶ城総攻撃三日目

今日も雨の様に砲弾が降り

死傷者の数が増えるばかりの鶴ヶ城です

 

これに対し 会津も頑強に抵抗を続け

今日もお城の内外で 必死に応戦しています

が...

 

この日

西軍の参謀 板垣退助は

既に降伏していた米沢藩を通じ

会津藩主 松平容保公に降伏を勧告しました

 

これを受け 容保公は重臣を集め

恭順のことを議論しました

120831緑の中の鶴ヶ城.JPGしかし 城内には 主席家老梶原平馬を筆頭に

なお徹底抗戦を説く者が多く

議論はまとまりません

 

西軍十万 対して城内の兵は三千

しかも一ヶ月に及ぶ籠城で 弾薬 食糧も乏しくなり

兵も皆疲れきっています‥

 

既に二千余人(うち婦女子二百余人)

がこの籠城戦で死亡しています

 

それに追い打ちをかけるような

一日数千発にも及ぶ砲弾の雨

 

もはや城内には 亡くなった方々を埋葬する

場所も残っていません。。。

 

また 苦しんでいるのは藩士や家族ばかりではありません

領民たちもまた 家を焼かれ 財を奪われ

山野をさまよい はるかに鶴ヶ城を望みながら

 

砲煙がやむ日を

平和な日常が戻る日を待ちかねています

120731飯盛山鶴ヶ城.JPG もはや あらゆる状況が

鶴ヶ城の落城が近いことを

告げています‥

 

容保公の心も 揺れています。。。

 

 

籠城二十五日目の鶴ヶ城の今日でした。。。

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十五日

 

前日から行われている西軍の総攻撃は

この日も容赦なく続けられました

雨の様な砲弾の嵐が鶴ヶ城に打ち込まれています

この猛烈な砲撃により城内では

たくさんの命が消えました

 

しかし 会津も まだまだ対抗!徹底抗戦を続けます

  

鶴ヶ城城南部で転戦していた

会津藩家老 一瀬要人(いちのせかなめ)

の軍は西軍と遭遇し 戦闘になりました

 

本郷村から萱野権平衛軍らも援軍に駆けつけ

会津軍は西軍を退けることに成功しました

 

しかし、この日の戦いで 会津軍は一瀬要人など

多くの指揮官を失ってしまいました

120901一瀬要人墓.JPG

一ノ堰 光明寺 一瀬要人の墓

会津戦争では越後口総督となり

桑名藩や長岡藩の河井継之助らと共闘し

北越戦線を転戦した方です

この日の戦いで重傷を負った彼は療養中の二十二日

開城を知らせる容保公からの親書を受け取った

後 静かに息を引き取りました

 

そんな中 桃沢彦次郎と米沢藩士針生虎之助は

高田の佐川官兵衛に降伏を進言しました

鬼カンこれに激怒して一蹴!

『降伏開城などありえん!帰れ帰れ!!』

まだまだ徹底抗戦以外ありえない城外戦です

 

 

その頃 城内ではこんな出来事も

 

★泣くな武士は仕方ない

 

総攻撃中、ある少年が、明け方の霧に乗じて

食糧の調達に 城南に出て

かぼちゃをたくさん集めまして

 

そして 帰城の途中 二の丸南門の近くで

小田山からの砲弾に被弾しました

 

右大腿骨を粉砕され 人に担がれてきましたが

腰が立たないので 私は大きな石に寄りかからせ

草履をとり、袴を脱がせて手当てをしてあげました

 

その少年は 少しも泣かず また

『痛い』とも言いません

 

その時、やぐらからその光景を発見した従僕が

驚いて駆け寄ってきました

 

そして、少年のこの惨状を見て

大声を出して泣き出してしまいました

少年はこの時 十五歳でしたが

泣き続ける従僕に向かい

 

『見苦しい!泣くな!武士は仕方ないじゃないか!』

 

と 威厳のある元気な言葉で叱りました

この 勇敢な少年は 出血多量で ついに

亡くなってしまいました

 

この少年の最後まで威厳を持った

武士としての振る舞いには 私も感服しました

 

‥以上 八重さん回顧録からの引用でした‥

 

 

会津藩には『什(じゅう)の掟』というものがありました

六才から九才の藩士の子供が

地区ごとに『什』という集まりを作り

仲間の家に集まってはこの言葉を繰り返し

その日の自分のふるまいを反省していました

 

一、年長者の言う事に背いてはなりませぬ

一、年長者にはおじぎをしなければなりませぬ

そして、最後にこの言葉で〆られます

『ならぬことはならぬものです』

 

今の時代にはそぐわない内容もありますが

当時の会津の子供達は

理屈ではなく、会津武士の子として

自らを律していたのでした

 

この什の掟のひとつにこのような言葉があります

『一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ』

この時亡くなった少年は『痛い』と泣き叫ぶ事を

『卑怯なふるまい』と思い、じっと我慢していたのでしょうか‥

 

いずれにしろこの少年にも『覚悟』があったのだと思います

籠城に耐えている全ての人々が

『覚悟』を持っていたのだと思います

雨アラレの様に降る砲弾に誰も恐れずひるむことなく

『覚悟』を持って向かいあっていたと思います

 

総攻撃は明日も続きます‥

 

この日 米沢に続き 仙台藩も降伏しました‥

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十四日

西軍が いよいよ鶴ヶ城への総攻撃を開始しました

籠城戦二十三日目 いよいよ戦局が大きく動いたのです

 

午前八時 小田山、館、慶山から撃ち出された砲弾は

糸を引くように鶴ヶ城に吸い込まれ

砲煙が天守閣を包みました

120731飯盛山鶴ヶ城.JPG同時に城の四方から

西軍が包囲網を絞っていきました

これに対し 城内の会津軍もひるまず応戦

すさまじい戦闘をくりひろげました

 

佐川官兵衛率いる城外の会津軍もこれに呼応

政府軍を背後から脅かし 城内で戦う仲間を援護します

激しい3日間の始まりです

120831緑の中の鶴ヶ城.JPG 

一方この日の総攻撃で

城内では こんな悲劇がありました

  

 ★山川登勢 非業の死

 

『山川登勢(とせ)さん』

会津藩 若家老 「知恵山川」こと

山川大蔵の妻

 

照姫を守護していた彼女は

この日の総攻撃の際、照姫の居室において

破裂弾の砲撃に遭いました

 

三ヶ所の重傷を負いながらも

自分の事は忘れ

照姫の安否を気遣っていた彼女

姫の御無事を聞いて

慰問に訪れた使いの人に

深く感謝してお礼を述べたといいます

 

以下は、彼女の義理の妹

後に鹿鳴館の貴婦人と言われる

『山川捨松さん(幼名咲子さん)』が

後に語ってくれた談です

当時九才の彼女もまた

籠城戦の城内にいました

そして九才の彼女も

この日の砲撃で負傷を負っています

 

『私たち(母(艶)、姉(二葉:当時家老梶原平馬の妻)

義姉(登勢)、咲子(本人)は

いつも死ぬ覚悟は出来ておりました

 

怪我をして不自由な身体になってしまうより

即死するほうを望んでいました

なので 私たちはいつも母と約束していました

 

もしも私たちの中で誰かが重傷を負った時は

武士の道にならって私たちの首を落としてくださいと‥

 

あの日 被弾して重傷を負った義姉は

「早くこの苦しみを救って下さい

母上、どうぞ私を殺してください」

と、苦しい息の下から頼みました

 

その声を聞くことは、とてもつらく

耐え難かったです

でも、母の心は

余りのむごい情景にすっかり呑まれ‥

約束を守るだけの強さは

母には残っていませんでした』

 

登勢さんは拷問のような苦しみを味わいながら

夫 大蔵が到着する二、三時間前に息を引き取りました

 

目をつぶりたくなるような光景です

とっても切ない 会津武家の女性の死でした

120831本丸下より.JPG 

一方、そんな中激しい砲撃の中 こんな笑い声もありました

 

★八重さん大爆笑

 

激しい砲弾の雨が降る中 八重さんは砲撃の隙をみて

有賀千代子さんと共に 握り飯を盆にもって

大書院、小書院の病室へ運搬していました

 

その途中 砲弾が足元で破裂し

八重さん達の廻りは砂塵がもうもうと立ちこもり

目も開けていられない状態になりました

 

『ゲホッ ゲホッ! 大変な砲撃だったねぇ!千代子さん大丈夫?』

『ゲホッ ゲホッ!私はなんとか大丈夫。ゲホッ!八重さんこそ大丈夫?』

 

やっと目をぬぐい、視界が戻ってお互い相手の顔を見たら‥

八重さんも千代子さんもまるで土人形のお化けのよう!

 

『なによ!その顔!!』

 

これにはお互い 指をさし合っての大爆笑!

さすがに若い女の子 こんな状況でもケラケラw。 まっくろやえちゃん.JPG激しい砲火の中

抱腹絶倒の二人でしたが・・・

ふと我れにかえって、見てみると

盆に入れていた握り飯は。。。

 

蟻塚をそっくり盆に載せたような

ごみいっぱいになっていました

 

これには二人もがっかり

『あーあ‥』

と深いため息をついた二人でした

 

この日 西軍が放った砲弾は 二千五百発

総攻撃は翌日も続きます‥

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

籠城開始から二十二日目

144年前の今日 慶応四年九月十三日

この日は 西軍が 鶴ヶ城総攻撃を計画した日でした

しかし この日は朝から雨がふる会津

 

やむなく 西軍は総攻撃を翌日の十四日に延期しました

鶴ヶ城に籠城する容保公始め会津藩の人々には

もちろん そんなことを知る由もありません

 天に助けられた今日の鶴ヶ城でした

120910鉄門中より.JPG 

そこで本日は 特別企画を考えました

籠城戦中の会津藩主『松平容保公』の胸中

について考察してみました

長い文章になってしまいましたが ご覧下さい

  

★藩主『松平容保』の胸中 

120912容保公正面.JPG

ふー‥籠城に入って今日で何日目になるかのぉ‥

毎日 雨のように降ってくる砲弾 日に日に増える死傷者‥

城外でも (佐川)官兵衛らの奮戦の報が

毎日の様に伝えられてくる‥

 

家来の皆は わしの顔を見るたびに

『殿 まだまだやれますぞ!

会津はこれくらいではへこたれませんぞ!』

と 曇りの無い笑顔で語りかけてくれる

すまぬ。。。大切なおまえらに

このような苦難を与えることになって。。。

120731小田山より鶴ヶ城.JPG

そもそもの始まりは

京都守護職の台命が下された時であった‥

あの頃わしは病床にあり

その様な大役を受けられる体調ではなかった

一橋公(徳川慶喜)らの要請にも

当初は 再三にわたって辞退したのだが‥

 

(西郷)頼母や(田中)土佐ら、家老の者たちも

慌てて会津から江戸に駆けつけ

必死に就任を思いとどまる様

わしに進言したものじゃ

120912容保公右下.JPGしかし わしは 悩んだ末 最終的に

京都守護職の就任を受諾した

 

士津公 (はにつこう:会津藩祖 保科正之公)以来の

会津藩 家訓

『大君の義、一心大切に忠勤に存すべく‥』

 (会津藩家訓第一条:将軍のことを一心に大切にして忠勤を励むべし‥)

120525士津正之公.JPG

猪苗代町 士津神社 保科正之公墓

 

あの頃の 将軍家(幕府徳川家)の辛苦を思えば

臣下として 台命を辞退することは出来ぬと考えたのじゃ‥

 

今思えば 頼母が言うたとおり あれが全ての始まりであった‥

あの時 台命を受けた結果が 今の会津の惨状となっている

 

家来や民が苦しみ 死んでゆく姿を 見るたび聞くたび

あの時の決断は間違っていたのかと

今でもわしの心に重く問いかけてくるのじゃ‥

120731小田山より城下.JPG

 京都での家来の活躍は わしから見ても素晴らしかった

尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中

無政府状態であった京都を

わが会津は必死で守護し続けた

 

将軍家が 自分の身が危うくなって

江戸に引き上げたときも

会津藩は 最後まで京都に留まり

その任をまっとうした

 

士津公も この会津士道に満足して見てくれていたと思う

佐々木(只三郎)の見廻組や官兵衛の別選隊も

本当によく 奮闘してくれた

 

そして なんといっても 近藤(勇)らの新撰組は

本当によくやってくれたものじゃ

彼らは誰よりも武士に憧れ

それゆえに他の誰よりも武士道を貫き通してくれた

120912近藤墓.JPG天寧寺 近藤勇墓(左)土方歳三慰霊碑(右) 

 

120721斎藤一墓.JPG

阿弥陀寺 斎藤一墓

 

 

孝明天皇も 会津を心から信頼し、頼ってくれていた

われわれは、決して朝廷に背き

天下につばをはく『逆賊』などではないことを

孝明天皇 御自らが

一番分かってくださっていたはずじゃ‥

 

世の流れが変わってしまったのは

その孝明天皇が崩御されてからだ‥

 

天皇の崩御により

会津にとっての心の拠り所が失われた

 

明治天皇に変わられて

とたんに朝廷内の倒幕派の動きが激しくなり

さらには いつの間にか

薩摩が長州と手を握って

倒幕路線に切り替わっていた

 

将軍となった一橋公は大政を奉還した

一橋公は それで全て ことが済むとお考えだったようじゃ

このまま 一橋公を議長とした諸侯会議で政治が

運営されると考えておられたようじゃ

 

しかし そんなに甘いものではない

岩倉(具視)公や西郷(隆盛)、大久保(利通)ら薩摩藩は

そのまま 倒幕への開戦へと持ち込みたい心から

旧幕府への挑発を執拗におこなった

 

そして幕府はこの挑発に乗ってしまい‥

西軍にとっての 倒幕戦が始まってしまったのだ‥

 

『官軍』 対 『賊軍』 の体をなして‥

120912容保公右.JPGわしにとって 一番の後悔は

鳥羽伏見の戦いじゃった‥

(林)権助や官兵衛ら会津が誇る猛者や

新撰組の面々が勇猛果敢に死闘を繰り広げる最中

わしは‥‥わしは 一橋公に強引に請われ

江戸に引き返してしまったのだ‥

 

戦いの最中に総大将がいなくなってしまうなど‥

今思い返しても痛恨の極み

家来に申し訳なく 血の涙を流した‥

 

修理(その責を一身に受けて切腹した 神保修理)

にも申し訳ないことをした‥無念だ‥

修理は以前から 恭順を強く進言してはいたが

戦いの最中に 総大将に江戸に戻れというような

おろかな進言など するはずもない

 

あのように 国の未来を頭に描きながら

今出来る最善の方策を思案出来る男を

あの様な形で失ってしまった‥

すまぬ!修理‥

 

鳥羽伏見に破れ 傷を負いながら

大阪から江戸に戻ってきた家来たちに

わしは心から謝った

そんなわしに

家来はこう言ってくれたのじゃ

 

『お殿様 会津に帰りましょう

一緒に会津に帰りましょう!』

 

涙が止まらなかった

我が決断の結果で こんなにも苦しめ

そればかりか

戦っている最中のお前たちを

心ならずとも 見捨ててしまったこのわしに

 

家来たちは 少しの恨み言葉も言わず

会津藩主として、わしに

一緒に会津に帰ろうと言ってくれた

120912容保公左.JPG その時 わしの腹は決まった

幕府への忠義は充分に尽くした

もういいだろう!

 

これからは この 愛する家来と

共に会津だけを見ていこう!

 

西軍は 振り上げたこぶしを

会津を潰すことで

納めようと 軍を北上してくるだろう

 

会津が逆賊 朝敵などと言われる覚えは

ツユひとつもない!

 

後の子孫のためにも

会津に『義』ある事を

後世に残し伝えていくためにも

ここで武士道を貫き通し

会津の誇りを守り通して戦うことを

このとき わしは決意したのじゃ!

 

勝ち目など とても無いことは重々承知

しかし戦わなければならなかったのじゃ

 

『義』を貫き通したその先に

会津の未来があることを信じて

 

愛する家来や愛する会津の民のために

そして 後の世の子孫のために

会津が歴史の上で 逆賊などでは

決してなかったことを伝えるために

 

白河・二本松を落とし、母成を制した西軍は

わしの頭をはるかに越えた速度で会津城下に進行してきた

国境の守備にほとんどの兵を費やしていたあの頃

わしは城を枕に殉ずる覚悟で籠城戦に入ったのだ

 自分の命など なんら惜しくはない

 

しかし‥ しかし‥‥

白虎隊や小竹女子(中野竹子)などの

少年や婦女子までも戦場で死なせ

 

さらには日に日に増える戦死者 負傷者‥

城内で義姉上(照姫)のもと 気丈に働き続ける婦女子達

武器や食糧も底を尽き始め

負傷者を手当てする薬も包帯も もはや無い‥

 

それでも 『大丈夫!まだまだやれますぞ!』

と、老若男女問わず 気丈に笑顔で

語りかけてくれる家来の顔を見ると‥

 

 これ以上の抗戦を、まだ続けるべきか‥

今 わしは 悩んでいる‥  

悩んでいる‥

120906磐梯山.JPG

 (以上は、あくまでも私個人の考察であり、人それぞれに

歴史観・歴史的考証があると思いますので、その点はお許しください)

 

 

そんな容保公の思いに追い打ちをかけるように

明日から 猛烈な西軍の総攻撃が開始されるのでした‥

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十二日

 

この日 西軍陣営は 重大な決断をしました

 『明日 十三日鶴ヶ城に対する総攻撃を開始する!』

 

そんな決断がなされたことを 会津が知るはずもありません

今日も 郭外では各地で隊の再編や移動

戦闘が繰り広げられています

会津は まだまだ

 徹底抗戦の構えを崩す気はさらさらありません

  120831本丸下より.JPG 

 

ここでちょっと話題を変更

 今日は歴史上には名前は残らなかったけど

歴史の舞台の上で 大変な上司を持って

奮闘したこんな方々の心境について 考察してみました

 

★鬼カンの部下は大変だけど‥

 

最後まで 戦い! 戦い!! 戦いぬいた!!!

 佐川官兵衛

今も城外戦を戦いまくっている猛将

『鬼の官兵衛』

 

ふと この人に付いていった家来の方々は

さぞかし大変だったんじゃないのかなーと思い

こそっとインタビュー

 

ちょうど休憩中の家来の方

(佐川さんには絶対絶対内緒で!という約束で)

鬼カンさんの部下でいることの

率直な感想をお聞きしてみました

 

『そりゃぁ あの人の下にいると大変だよぉ!

命がいくつあっても足んねぇよ!

 

あの人は戦うために生まれたような人だからなぁ!

『ケンカ』と聞くと 目がキラリン☆と輝くんだよぉ‥

 

でもな わしらの大将は

どんなケンカでも いつも

わしらの前にいるんだ!

分かるか?

 

『いけー!』と、わしらの背中を押すんじゃなくて

いつも 『ついてこーい!』と

わしらをぐいぐい引っ張っていくんだよ

 

だから いつも敵の銃口の一番前に立っているのは

わしらの大将なんだよ

目をキランキランさせて

『ひるむなー!ついてこーい!』ってな

 

だから 仕方ないよな

だからわしらは あの人に命を預けられるんだ

 

あの人に付いていって

例え死んじまったとしても

恨みはないし

逆にあの人のために死ねるなら本望だよ

 

裏表が全くない、嘘なんて絶対につけない

まっすぐでバカ正直で

 

感情がすぐに顔に出るから、機嫌悪い日なんか

みんなビクビクだけど‥

酒癖も悪いし 口も悪いし‥

 

だけど

 

いつもは あんな鬼のような

おっかねー顔をしている大将だけど

笑うと 愛嬌があって なんとも めごい顔になるんじゃ

 

子供のようなあの大将がわしらは大好きなんじゃ

こんな命でよかったら

あのガキ大将にくれてやるさ!』

 

ほめられてるんだか

悪口言われてるんだかわかりませんが‥

 

家来の方々に とっても信頼されて

愛されているのが分かるお話しでしたね

 

鬼カンさん いい部下を持って幸せだね

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~はじめに 平成二十四年の今日から~

 

今日で あの日から1年6ヶ月の月日がたちました

あっという間だったような 遠い昔に感じるような‥

 

あの日に戻れるまでには まだまだ時間がかかります

あの日のまま 時間が止まったままの方々も

まだまだ たくさんいます

 

そんな中で 私たちは

自分に出来る事を これからも しっかりと続けていき

一歩一歩 前を向いて 歩いて行きたいと思います

 

たくさんの方々の 暖かい心と 心からの応援が

私たちに勇気と元気と力を与えてくれました

 

ありがとうございます

心から ありがとうございます

これからも よろしくお付き合いください

 

 

さぁ!今日も144年前にタイムスリップしてきますねー

\(^o^)/

 

★幕末へタイムスリップ

 

幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十一日

 

米沢の降伏により 孤立状態の会津ですが

お城で籠城を続ける容保公のためにも

まだまだ負けを認める訳にはいきません

この日も城外では 必死の戦闘が繰り広げられました

 

★家老 萱野権兵衛が、塩川の兵を集めて部隊を再編し

更なる城外戦に対する体制を整えました

120624喜多方市街地.jpg

 

★喜多方 熊倉に西軍が侵攻し、同地にいた会津軍は

総力をあげてこれを迎撃。西軍は敗走しました

20111129喜多方駅前.JPG 喜多方駅前通り(ちょっと以前の写真)です

 

★佐川官兵衛は、鶴ヶ城中の食糧が欠乏しているとの情報を得て

自ら 砲兵隊や朱雀隊などを率いて高田に出陣

食糧を確保して城中に送りました

120904高田.JPGまだまだ城外も 徹底抗戦の構えを崩さない

慶応四年九月十一日の会津です 

 

 

 そして、今日は この方について 人物探訪してきました

★人物探訪 『梶原平馬さん』

 

今回も 一般的にはあまり知られていないかもしれませんが

会津の歴史を語る上で 欠かすことの出来ないこの方を紹介します

 

会津藩最後の主席家老 

【梶原平馬さん】

天保十三年に会津藩家老

内藤信順の次男として生まれ

名門 梶原家の養子に入りました

最初の妻は 山川大蔵さんの姉 二葉さんです

 

慶応三年正月に主席家老に就任

それからは 激動の幕末に巻き込まれ

文字通り会津藩最後の主席家老として

会津藩存亡が 若き家老 平馬さんの双肩にかかりました

 

武芸・学問に秀で 容保公が京都守護職に任じられると

その側近として上洛し、容保公を支えました

 

鳥羽伏見で破れ 容保公が会津に帰国した際は

平馬さんはそのまま横浜に残留し

武器弾薬の買い付けに奔走しました

そして、長岡藩家老 河井継之助さんと共に船でそれを運び

新潟港から陸揚げし、帰藩しました

 

梶原さんの最大の功労は『奥羽越列藩同盟』の成立です

帰藩後、庄内藩と近づき 米沢藩や仙台藩を動かし

この同盟の締結に尽力しました

 

籠城戦中は城内で内政を行っていた平馬さん

バリバリの主戦派で

最後まで徹底抗戦を訴え続けた方です

恭順派の家老西郷頼母さんとは

ことあるごとに対立していたと思います

 

降伏・開城時には文字通り

会津藩最後の主席家老として

軍事奉行添役秋月悌次郎さんらとともに

開城式に臨みました

 

開城後は東京に幽閉されますが、その間にも

藩主容保公の助命嘆願に努めました

 

その後 斗南藩→廃藩置県後の青森県庁

そこから後、消息が分からなくなっていましたが

近年 根室市に墓があることが分かりました

 

会津戦争を語る上で欠かすことの出来ない平馬さん

大河では 池内博之さんが演じます

『八重の桜』で、会津最後の主席家老が

どのような活躍を見せてくれるか 楽しみです

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シリーズ『鶴ヶ城暦』

9月も半ばの本日 10日

 

9月の鶴ヶ城を廻ってきました\(^o^)/

 

まだまだ暑い会津の今日でしたが

よく見ると 木々の葉が 夏の盛りの頃より

すこし 色が変わっていました

 

やっぱり秋なんですねー

 

それでは ここからは言葉は不要!

9月10日 初秋の鶴ヶ城を お楽しみ下さい!

\(^o^)/

 

120910西出丸石垣上.JPG

120910鶴ヶ城公園.JPG

120910鉄門中より.JPG

120910走り長屋.JPG

120910本丸.JPG

120910北出丸.JPG

いかがでしたでしょうか

これから いい季節を迎える会津です

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月十日

今なお郭外の各地では

会津軍と西軍の戦闘が続けられています

 

★喜多方 新宮村の純義隊は、山崎村で戦いましたが

援軍がなく後退 塩川村へ退却しました

120624長床1 .jpg 

一方 この日 政局にも動きが出ました

 

★先日 降伏を表明した米沢藩から、喜多方熊倉にあった

会津軍本営に 降伏勧告の使者が来ました

 

もはや実をなしていない奥羽越列藩同盟

会津の孤立はこれで確定的となり‥

 

一縷の望みを託していた

援軍の期待も完全になくなりました‥

 

しかしながら藩兵の士気は少しも衰えません

命尽きるまで 徹底抗戦の構えを続ける会津兵でした

120906磐梯山.JPG 

★人物探訪 秋月悌次郎

幕末の歴史好きな方なら 知らない人はいないけど

そうでもない方には あまり有名ではないかもしれない

今日はそんな会津藩士『秋月悌次郎さん』についてご紹介します

 

会津藩校日新館に学び、秀才として知られた彼

容保公の側近として仕え

容保公が京都守護職に任命されると、

公用方に任命され 上洛

幅広い人脈を作り 会津藩政におおいに貢献しました

 

『禁門の政変』では、薩摩藩と手を結び

会津藩兵の実質的指導者として活躍しました

 

その後 佐幕派から嫌われ 蝦夷に左遷

その間に薩長同盟が結ばれてしまい

慌てて呼び戻されるも 時すでに遅く‥

 

戊辰戦争が開戦

 

戊辰戦争では軍事奉行添役として各地に出陣しましたが

専ら裏方として活動し、戦場で戦う機会はありませんでした

 

降伏の際には戦火の激しい鶴ヶ城を必死で脱出し

米沢藩へ赴いて 西軍との取次ぎの協力を依頼

 

その協力により

土佐藩・薩摩藩などの西軍首脳に赴き

降伏を申し出ました

 

敗戦後は戦争責任を問われ

終身禁固刑となりましたが

明治五年に特赦により赦免され

その後 学校教師となりました

 

第五高校(現在の熊本大学の前身)勤務時には

同僚として ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

が一緒に勤務していました

 

維新後の苦難に立ち向かった悌次郎さんの人格は

同僚や生徒達に深い感銘を与え

誰とも分け隔てなく接する姿を見て 小泉八雲は

『神様のような人』と賞賛したそうです

 

激動の幕末会津藩の中心人物として活躍し

その後の人生は 時代を担う若者の教育に捧げた

会津武士は 77歳で、静かに息を引き取りました

 

『今日の落花は来年咲く種とやら』

 

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

今日から14日まで 城内においては

大きな争いや動きはありませんが

相変わらず 無数の砲弾が鶴ヶ城本丸めがけて

襲い掛かる日が続いています

 

ところ変わって 城外・郭外においては

至る箇所で 小競り合い ゲリラ戦を含め

西軍との戦いが続けられています

 

★田島では、農民達が、陣屋に陣取っていた

西軍を襲撃して追い出しました

120803田島陣屋跡.JPG

 農民の皆さんも 後方援護してくださっていたんですね

 

 

★小野田隊、砲兵隊、進撃隊などが、大内村に到着しました。

これを受け 佐川官兵衛は

所隊を率い 大内から田島へ向かいました

120903大内宿.JPG

籠城戦を続ける鶴ヶ城の食糧確保のため 南方ルートは

絶対に会津が確保しておく必要があるのです

 

★その頃鶴ヶ城近く

高田(現在の会津美里町)に西軍が攻撃

沼沢出雲隊が奮戦。これを撃退しました

120904高田2.JPG高田は、外部との情報連絡をつなぐ大切な要所

沼沢隊はこれを必死に死守しました 

 

 

★現在の喜多方市 新宮村の純義隊が

山崎の山上から西軍を攻撃し、敗走させました

120624けやき長床.jpg 遠く喜多方戦線でも、必死の攻防が繰り広げられていました

 

 

★また、この日は喜多方 小田付に滞在していた

幕臣 大鳥圭介が

福島へ向けて出立しました

彼はその後、函館で戦うことになります

彼の会津戦争も、本日で最後となりました

 

そこで今日は 大鳥圭介さんについてのお話し

 

会津戦争で 徳川幕府の高官として

ただひとり 会津と共に戦ってくれたのが

幕府陸軍歩兵奉行 大鳥圭介さんでした

 

(ちなみにもう一人 戊辰戦争を幕臣として戦ったのが海軍副総裁 榎本武揚さん(実質的な海軍のトップ)会津には海が無いので 榎本さんは会津戦争には参戦したくても出来ません。後の函館戦争で土方さん達と一緒に五稜郭で戦うことになることは、皆さんご承知の通りです)

 

大鳥さんは 播州赤穂生まれ

お家は医者だったそうです

おじいさんが教育熱心な方で

圭介さんは 勉強をよくしたそうです 

 

もともとは医者になるために勉強していたのですが

そのうちに軍事の文献を読むようになり

そちらの方向にどんどん興味を増していきました

 

時代の混乱期の中 幕府の中でトントンと出世し

とうとう陸軍のトップになりました

 

もともと武士ではない自分を引き上げてくれた!

自分を育ててくれたのは幕府だ!

そういう思いの強かった彼は 幕府がひっくり返った後も

幕府への恩返しのために 部下を率いて会津に向かいました

 

そういう『義』の考え方は 会津の武士と似ています

 彼が学んだ岡山藩『関谷学校』も、日新館同様

人間の生き方などの、精神的な教育に熱心だったそうです

 

山王峠 母成峠 そして、斎藤一さんと共に戦った越後口北部戦線

 彼は精一杯戦い抜きました

 

会津戦争においての彼は 連戦連敗でした

しかし 私は彼が無能な将校であったとは思ってはいません

 

この戦争 特に城外を転戦していた幕府軍にとって

食糧・武器の調達が あまりにも不十分でした

戦おうにも撃つ弾がないというような状態でした

 

事実 母成敗戦後 彼は武器食糧の調達を目的に

米沢藩に出向き それを断られ

やむなくまた戻って来たということもありました

 

私は、もしも大鳥さんにきちんとした兵站(へいたん)が整っていたら

彼はその能力を存分に発揮し

おおいに活躍したんじゃないかと思っています

 

この日 大鳥さんは会津を出立しました

ありがとうございました

 

たった一人で 幕府の『義』を守ってくださったあなたは

孤独に戦う会津にとって

斎藤さんと同様 絶望の中の一光だったと思います

ありがとうございました

 

幕府隊が去っても まだまだ籠城は続きます 

以上 各地で戦闘が続いている144年前の9月9日からでした

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前 慶応四年九月八日

 

今日は、籠城戦が続く鶴ヶ城に

記者が決死の潜入!

 籠城中の方々に

お話しを伺いに参りました

 

あ!ちょうど、目の前を小柄な男性が通りかかりました!

さっそく お話しを聞かせてもらうため、取材してきます!

120731走り長屋前.JPG

 記者『すみませーん!ちょっとお話しを伺わせてくださーい!』

 

『なによ?わたし忙しいのよ!』

 

記者『え?女性だったんですか!男装していられるので、気付きませんでした‥』

 

『失礼な!もう行くわよ!!』

 

記者『待ってください!少しだけ!すこしだけお話しを伺わせてください!!』

 

 しょうがないわねぇ。ほんとに少しの時間だけよ!』

 

記者『ありがとうございます。それではまず、あなたのお名前は』

 

山本八重子っていうのよ!』

八重5.jpg

(注)画像はイメージ(やえちゃん)です

 

記者『えー!あなたが あの山本八重子さん!!来年はお世話になります!!!』

 

八重『なにワケ分かんないこと言ってんのよ!用が無いなら行くわよ!』

 

記者『ちょっ!待ってください!時間は取らせませんから!少しだけでいいんで、お話し聞かせてください!籠城して結構な日がたちました。今のお気持ちを率直に教えてください』

 

八重『籠城の感想かぁ。戦を見るのは当然初めてだったんだけど、戦っていうのはすごいね。犬死しちゃったら つらいけど、戦う所を見ていると、女の私でも強い心になれる。 この前なんか、怖かったけど、100mくらいまで近寄って、戦っている現場を見に行ったこともあるのよ。すごかったわ!‥とはいえ、籠城中は、私にも弾が二回も当たってびっくりしたんだけどね』

 

記者『えー!八重さんも鉄砲で撃たれちゃったんですか?大丈夫だったんですか?』

 

八重『うん!一回目は、帽子(柄付きの兜だと思われます)をかぶっていた時、その帽子の、ひさし(柄)の部分を撃たれたの。帽子が飛んでいって、お堀の中に落ちていったのよ!ビックリしたわぁ!「誰よ!いたずらしたのは!」って振り向いても誰もいなかったから、わたし、撃たれたんだぁ!って、やっと気付いたの。ちょっとずれてたら、こめかみを撃たれていたところよ!それと、もう一回は、城内に弾薬を運んで行って、帰ってきたら、いつの間にか袴の裾に穴が開いていたの!いつ撃たれたんだろ?』

120831お堀.JPG

記者『‥怖いですね‥ケガしないようにしてくださいね。八重さんは城内でどういう風に呼ばれているんですか?』

 

八重『わたし、鳥羽伏見で戦死した弟が着ていた服を着ているの。袖に弟の血がついていたから、そこだけ別の布で繕ってね。大小の刀も弟の物を差しているわ。懐剣だけは自分のだけど。 入城した時には、それにスペンサー銃と弾丸をかついで、颯爽と入城したもんよ。そのうえ、入城してすぐに、幼なじみの時尾ちゃん(高木時尾:後に斎藤一の妻)に髪をバッサリ切ってもらったりしたこともあって、周りに私を「八重さん」と呼んでくれる人は 誰もいなかったわ。 みんな、私のことを弟の名前 【さぶろうさん】と読んでいたわw。』

 

記者『へー!そうだったんですか』

 

八重『正直、嬉しい。わたしの中に、三郎が生きているって感じられて。 入城の日、「女は足手まといになるから入城しないで避難しよう」と、止める母上に、「わたしは、お殿様のために、そして三郎の敵討ちのために、西軍と戦いに行きます!」って言って、このお城に入城したの。。。昼は怪我をした兵の方々の看護や照姫の警護がほとんどだけど、夜になったら夜襲にも参加してスペンサー銃で撃ちまくったりもした。 尚之助さん(川崎尚之助:八重の最初の夫)と一緒に、小田山の西軍砲台めがけて四斤山砲をぶちかましたり、自分でも頑張ってると思うわ。あの時は、西軍の砲陣が、一瞬シーンと沈黙しちゃったのよ。気持ちよかった! でも、それでも会津がまだまだ劣勢なのが悔しいわ。。。毎日たくさんの人が亡くなってるのが悲しいわ。。。わたしも もっともっと頑張らなきゃね! あ!もうこんな時間じゃない!やることがたくさんあるのよ!もう行くわよ!』

 

記者『え!もっとお聞きしたいことがたくさんあるんですが!』

 

八重『また時間とれたら付き合ってあげるわよ!じゃぁねー!』

120808鉄門.JPG

 

記者『ご武運をお祈りしていますねーーー!!!行ってしまった‥さっぱりしていて、全然気取りがなくて、さわやかで、凛々しくて、なんというか。。。とってもハンサムな方でした!私、ファンになってしまいました!!また機会があれば、是非お話しをお聞きしたいですね。今日は以上。144年前、鶴ヶ城籠城戦を気丈に戦っている『山本八重子』さんへの貴重なインタビューをお送りしました!』 

(八重子さん回顧録から 現代風にアレンジしてお贈りいたしました)

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月七日

 

この日 家老 佐川官兵衛は南方の敵を撃退し

城内への糧道を確保するために

大内村まで出撃することを決意しました

 

 

今日は城内に入れなかった

こんな方について調べてみました

 

★日向 ユキさん

来年の大河『八重の桜』で

剛力 彩芽さんが演じる女性です

 

NHKの出演者紹介では

八重さんの幼なじみという紹介でした

 

調べてみると 彼女はとっても

明るくて魅力的な女性

 

悲しい事や苦しい事がたくさんあったひとなのに

そういう記憶は忘れたように

楽しかったことだけが後の回想として

甦っている 素敵な女性だったそうです

 

彼女は 会津藩士 日向左衛門の二女として生まれました

十八歳のとき 会津戦争が勃発

八月二十三日の朝 早鐘が鳴ったので

支度をして行ってみたら 時すでに遅く

お城の門は堅く閉じられていて 入ることは出来ませんでした

120831緑の中の鶴ヶ城.JPG

その時 十歳の弟だけは先に荷物と一緒にお城に入り

城内 三の丸の土手で家族を待っていましたが‥

 それから開城までの一ケ月間

弟は城内で親類の世話になりました

 

お城に入れなかったユキさんと祖母、継母や弟達家族六人は

市街へ逃れ 農家の家に世話になりました

 

ユキさんの継母は薙刀を携え、大小刀を差し

懐剣をふところにして 勇ましく家を出たそうですが

途中、その重さと雨のために歩けなくなり

若者に大小を預けてしまったという話しも

ユキさんは 後に明るく話してくれたそうです

 

ユキさんもまた この戦争で家族を亡くしています

父は開城のその日の大町口郭門の戦いで重傷を負い

もはやこれまでと 母親の実家の竹やぶに入って自刃

 

若干二十歳だった兄も九月八日 材木町の銃撃戦で

腰に銃弾を受け 立つ事ができなくなり

しりもちをついたまま射撃を続けるうち

今度は肩を打ちぬかれ、もはやこれまでと

部下に介錯を命じ自刃

部下はその首を稲束に隠して後進しました

 

後にユキさんは 祖母の実家の竹やぶで父の遺骨を探しあて

さらには 兄の部下から 兄の最期の模様を聞き

その首も探しに行って見つけ出し

二人の墓を並べて葬ったそうです

 

敗戦後は残った家族と一緒に青森 斗南(となみ)藩に移住

苦労の生活に耐え その後開拓使の

手伝いのため北海道に移り

そこで開拓使官吏の

内藤兼備さんと出会いました

内藤さんは ユキさんにひとめぼれ(?)

結婚を申し込みました

 

実は 内藤さんは、旧薩摩藩士でした

戊辰戦争にも従軍していました 

 

父や兄を殺した薩摩藩士の求婚に

ユキさんは当初 拒み続けましたが

周囲の説得や兼備の熱意に打たれ

結婚を決意しました

 

時代を越え、敵味方を越えて

『愛』が二人を結び付けたんですね

素敵です☆

 

ドラマでは、剛力さんが どんなユキさんを

演じてくれるか 楽しみです♪

 

籠城戦も十六日目の今日

藩兵の疲労も蓄積し 苦しい戦況が続く鶴ヶ城です

しかし まだまだ徹底抗戦の構えを崩さない

会津の今日でした

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月六日

 

今日は 会津戦争の最中 一刻も欠かすことなく

正確な時を伝え続けることで西軍と戦った

こんな方々についてご紹介します

 

★鐘が俺の刀だ! 確かな時を刻み続ける 時守達の意地

120731鐘撞堂.JPG

鶴ヶ城西出丸にある 鐘撞堂

会津藩は 時守(ときもり)を置き 昼夜この鐘を撞き

正確な時刻を城下に報じていました 

籠城戦をしいている最中も 鶴ヶ城の中から

この鐘は 正確に時を報じ続けていました

120831鐘撞堂.JPGどんなに砲弾を打ち込まれても

この堂から打ち鳴らされる鐘の音は

少しも時を狂わず 堂々としていたそうです

鐘撞堂付近から見える鶴ヶ城です

120808西出丸石垣上.JPG西軍の兵士にとっては それが しゃくに障る存在でした

この鐘撞堂を狙って ますます砲撃を集中させました

 

当時の時守は 長谷川利三郎(七十二才)

そんな危険極まりない状況の鐘撞堂ですから

城兵らは利三郎の 勇気を賞賛するとともに

危険だから避難したほうがよいと声をかけてくれました

 

しかし この老人は

「鐘撞堂は私の戦場!例えこの身が弾丸に貫かれたとしても本望です

だからあなた様達こそ、この様な危険な場所から早く離れ

自分の部署をしっかりとお守りください!」

 

と、逆に城兵に元気を与えていたそうです

120831鐘撞堂2.JPG

一方、城外で戦う会津藩兵や

遠隔地へ避難した者達は

この鐘の音を聞いて「今日も お城は無事だ!」

と勇気付けられていたそうです

 

しかし 九月十五日の西軍総攻撃の際

利三郎はついに敵弾に倒れてしまいました

時守の任は すぐに上野磯次郎が継ぎましたが

彼もまた、翌十六日に被弾し、壮絶な戦死

 

そこで、面木三平らが 家老 山川大蔵にお願いし

その後を継いで 時を報じ続け

結局 開城の最後の最後にいたるまで

この鐘の音が絶えることは

一度なりとも無かったそうです

 

西軍の兵達もついには根気負けし

最後にはこの鐘の音を重宝がるようになり

懐中時計を持っているものは鐘の音で時間を合わせたり

他の人たちも この鐘の音で時刻を知るようになったということです 

 

これも会津の意地

会津の時守達の 意地を貫き通した戦いに 拍手喝采です

20120403鐘撞堂.JPG

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月五日

今日は ふたつの戦いにタイムスリップ

 

★会津唯一の勝利!材木町の戦い

八月二十九日の長命寺の戦いに敗れた

鬼カン 佐川官兵衛

多くの兵を鶴ヶ城に帰還させ

自分は手兵を連れて城外に本営を置き

次の機会を待っていました

そこに 先日の関山の戦いを勝利した西軍が

本郷から鶴ヶ城南方に侵攻しようとしていることを知り

西軍に対する奇襲作戦を計画

材木町の秀長寺・住吉神社や近隣の民家に自軍の兵を

隠れさせ 西軍の到来を待ちました

120725秀長寺入口.JPG

120901住吉神社3.JPGそして、144年前の今日 正午頃 本郷を後にして若松城下に

進軍してきた西軍が通過しようとした時 砲撃開始

それを合図に会津軍は一斉に起ち 攻撃しました

120901住吉神社戦闘地.JPGふいを付かれた西軍は 驚愕しました

右往左往に狼狽し 一旦は総崩れ

しかし 時間が立つにつれ 兵力の優勢な西軍は

威力を回復してきたので

鬼カン ここが引き時と 攻撃を中止

西軍が遺棄した鉄砲・弾薬・食糧などを得て

日没前に城中に引き上げました

120901戦勝地看板.JPGこの戦い 城下における戦闘の中で

唯一の会津の勝利でした!

あっぱれ鬼カン!!!

 

 

★新撰組最後の日 如来堂の戦い

所はかわり この日の喜多方

前日の木曽の戦いに敗れた 斎藤一の新撰組

この日 高久村の戦闘に向かうため 若松方面へ出発

衝鋒隊が守る 如来堂へ到着しました

120630如来堂2.jpg

しかし衝鋒隊はその頃塩川に出向き

如来堂に集まったのは 新撰組だけでした

わずか十三名の新撰組

そこを 待ち構えていた

西軍三百余りに取り囲まれてしまい‥

120829如来堂斜め.JPG

たった十三名で周囲を囲む西軍に突撃血戦

結果はいいません‥

新撰組最後の戦いでした‥

 

更なる戦いの地を求め 函館に向かった

土方歳三に対し斎藤一は

『落城せんとするを見て 志を捨て去る、誠義にあらず』

 と 会津に残ることを決意しました

 

そして‥会津への義を貫き通し

 

最後まで会津と共に戦ってくれた

斎藤一ら新撰組の会津戦線は

ついにここに幕を閉じました

 

120829如来堂夕日バック.JPG 今でも残る如来堂

120829如来堂拡大.JPG新撰組隊士の血が染み込んだ

田園の中にぽつんとたたずむ聖地

 

この場所は 今も会津を見つめてくれています

会津における新撰組の戦いは

この日で終焉しました。。。

120829如来堂田園バック.JPG

 

 斎藤一はこの如来堂の戦いで

殉難を何とか逃れました

 

そして その後の会津戦争でも、開城後まで

ゲリラ戦を戦い抜いたと伝えられています

 

でも 私の中では

『新撰組三番隊組長 斎藤一』は

会津戦線『新撰組隊長 斎藤一』は

この如来堂の戦いで 終焉を迎えたと思っています

 144年前の今日 慶応四年九月五日

会津の友 新撰組は如来堂に散りました

斎藤さんもきっと見た 如来堂から眺める夕日です‥

120829如来堂風景.JPG

 

その後の彼の活躍は

会津藩士『山口次郎』の戦い

会津戦争終了後、『山口次郎』は

藤田五郎と改名 松平容保公の媒酌により

高木時尾と結婚

西南戦争では 薩摩討伐の警察隊として参加

大いに 活躍をしました

 

謎も多いこの方は 72歳で亡くなった際

床の間で正座をしながら往生したとも言われています

 

斎藤一

新撰組 三番隊組長 副長助勤 撃剣師範

会津戦争時 新撰組 隊長

沖田総司 永倉新八と肩を並べる

新撰組きっての剣客

 

断末魔にあえぐ会津を見捨てることは出来ず

最後まで『義』を尽くすことを『誠』といってくれた武士

 

彼の墓は 現在 会津若松市 阿弥陀寺にあります

九月二十二日に この寺で『斎藤一忌』が行われます

120721斎藤一墓.JPG

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

南部から押し寄せ 昨日の関山の戦いに勝利した西軍

関山を下り 本郷から鶴ヶ城を目指して どんどん北上を続けています

対する会津軍も これ以上の西軍勢力の増大を阻止するため

北上する西軍に対して必死の攻防戦を繰り広げています

 

一方 こちらは新撰組が必死で守る越後口 北部戦線

144年前の今日 慶応四年九月四日

 

山都町で 木曽の戦いがありました

 

前々日 陣ケ峯の戦いに敗れた

斎藤一の新撰組 大鳥圭介隊などの部隊

前日長窪に滞陣し、この日に移動を開始

そして 山都町 木曽にて西軍と遭遇

120828山都木曽.JPG

 2時間に及ぶ激戦 木曽の戦いが行われました

この戦いについても 詳細な戦力分布や戦闘状況については

調べることが出来ませんでしたが 西軍の勝利で終わりました

120828山都木曽平原.JPG

敗戦後 新撰組と大鳥隊は

木曽を引き上げ 喜多方の小田付へ向かいました

斎藤一の運命の日

会津戦争を共に戦ってくれた新撰組

最後の日を翌日に控えた 144年前の今日も

やっぱり戦い続け 歩き続けていた新撰組でした

 

この日、奥羽越列藩同盟で

仙台藩とともに中心であった米沢藩が

遂に降伏した日でもあります

頼みの援軍の望みが薄くなった会津でした

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月三日

 

新撰組が越後口北部戦線を戦っている144年前の今ですが

それと平行して ここ 日光口南部戦線でも 会津軍と西軍の

熾烈な攻防が繰り広げられています

 

今日は 城外戦の中でも熾烈を極めた

『関山の戦い』にタイムスリップ

 

関山 現在の会津美里町 旧本郷町

美里から大内宿へ向かう下野街道の途中にある集落です

 

 鶴ヶ城を包囲して攻撃中の味方の兵力を補うために

西軍は日光口から進軍し 大内村に宿営していました

120801大内宿3.JPG

会津軍としては これ以上の西軍の兵力が城下に

集結することは なんとしても避けたい状況です

 

そんな状況の中 九月一日未明 家老山川大蔵率いる

会津・幕府兵が西軍に銃撃を行いました

これに反撃しつつ、西軍は大内峠に進軍

しかし 会・幕軍の攻撃は厳しく 一旦大内村に撤退

120803二十四人墓.JPG 大内ダムの近くにある戦死二十四人墓です

この墓は西軍の戦死者の墓です

 

翌二日早朝 西軍は再び進撃を開始

一挙に攻め入ろうとしましたが

会・幕軍の徹底的な抗戦にあい

氷玉峠で苦戦。この日はそれ以上進めませんでした

120801氷玉峠.JPGそして 144年前の今日 慶応四年九月三日 

西軍は 軍監 中村半次郎が直接指揮をとり

氷玉峠を攻め降りました

氷玉峠のふもと 栃沢集落を攻略

120801栃沢集落.JPG勢いそのままに若松方面へ進軍

関山に進出してきました

120803関山集落.JPG西軍の猛攻激しく 会・幕軍はとうとうこれに

耐え切れず 退去しました 

その際 この集落は敵の進撃を阻止せんと

会・幕軍により全戸 兵火にかけられました

 

この一連の戦いにおける会・幕軍の戦死者は

約四十名にも及び 関山にはその墓が今も残ります

120731関山戦死40人墓.JPG 120731関山墓碑説明板.JPG こうして日光口から本郷に 西軍は侵攻し、兵力は さらに増強

会津はますます包囲された形となりました

 

 以上 144年前の今日からでした

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月二日

ここは鶴ヶ城からはるか離れた越後口北部戦線

現在の喜多方市高郷町から西会津町へ向かう峠にて

戦いが行われていました

その名も『陣ケ峯の戦い』 

前日山都に宿泊した

斎藤一率いる新撰組

大鳥圭介隊、そして長岡藩兵

更に歩を進めるため 西へ出発

山道を登っていきました

120828陣が峯遠景.JPG

ちょうど写真の真ん中くらいにある陣ケ峯峠に差し掛かったとき

長州藩と遭遇

120828陣が峯峠.JPG

陣ケ峯の戦いが始まりました

詳しい戦いの規模までは調べる事ができませんでしたが

東軍は西軍の勢いを止めることが出来ずに敗戦

 

会津の山深いこんな峠の山中で

新撰組と長州が戦っていたなんて

何か不思議な感覚を受けました

陣ケ峯峠には 戦いの際に築かれた

当時の土塁がまだあるそうです

120828陣が峯峠2.JPG

斎藤や大鳥達は 陣ケ峯を後にし

長窪まで引きました

 長距離の移動と 敗北で終わった戦‥

新撰組の皆さんの疲れは

心身共にピークにきています

しかし、まだまだ彼等の戦いは続きます‥

以上 今日の北部戦線 陣ケ峯の戦いでした

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幕末会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月一日

籠城戦10日目を迎えた鶴ヶ城 城下はもちろんのことですが

城外においても 西軍との戦いは いたるところで行われていました

 

この日、塩川に待機していた

大鳥圭介 と 斎藤一 

越後口への出陣要請がありました

大鳥率隊 新撰組はすぐに塩川を出立

山都・高郷・西会津の北部戦線に向かいました

 

斎藤さん達の部隊は おそらく

塩川から喜多方を廻り

120624喜多方市街地.jpg慶徳峠を越え

120828慶徳峠.JPG

 その日のうちに山都に着いたのかなと想像 120828山都鉄橋.JPG

 写真は有名な山都町の鉄橋です

当時は当然ありませんでしたが

斎藤さんもこの山の風景を見たんだなぁ‥と 一人感慨‥

 

それにしてもビックリです!会津の地形を知っている方なら

よく分かると思いますが 斎藤さんや大鳥さんが出張して来た

山都・高郷は、鶴ヶ城からはるかに離れている山あいの村なんです

そのうえ、明日戦うことになる場所は、すごい山の奥なんです

 

こんなに離れた場所でも

戊辰の戦いが行われていたんだと

ここに 確かに斎藤さんがいたんだと

そう思ったら

ちょっとゾクゾクする程嬉しかった私でした

 

この日は大鳥、斎藤両隊とも 山都に宿泊

翌日 さらに進軍して 西軍と対戦することになります

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