幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
144年前の今日 慶応四年九月十七日
この日鶴ヶ城籠城戦を維持するためにどうしても
落とせない戦いがありました
★一ノ堰の戦い
その頃の会津軍は、「鬼カン」佐川官兵衛の精鋭部隊が
鶴ヶ城の外でゲリラ戦を展開しながら、鶴ヶ城南方に
食料の補給路を確保していました
山本八重の父 権八も西軍の総攻撃を食い止めるため
玄武隊士中隊(50歳以上の藩士で構成する老人部隊)
の一員として出陣し 鶴ヶ城南部で転戦していました
61歳の山本権八は、老体に鞭を打っての出陣といえます
一方 総攻撃により 鶴ヶ城の外郭を突破した西軍は
会津藩の食料補給路を断つため
鶴ヶ城南方へ出兵しました
一度目の攻撃 九月十五日は
他の会津軍も援軍に駆けつけ
会津軍は西軍を退けることに成功
しかしこの日の戦いで会津軍は一瀬要人をはじめ
多くの指揮官を失っています
十五日は、会津軍の猛反撃に敗走した西軍でしたが
このまま会津藩の食料補給路を放置するわけにはいきません
そして 144年前の今日 慶応四年九月十七日
再び鶴ヶ城の南方へと攻め入りました
進軍した西軍は 一ノ堰に布陣している会津軍を発見
二手に別れて会津軍を挟み撃ちにしました
会津軍は必死に抵抗しましたが、激戦の末、敗れました
八重の父 権八も この戦いで戦死してしまいました
戦いの場 一ノ堰 光明寺に彼の墓があります
大きなダメージを受けました
また 会津藩は この戦いの敗戦により
食糧補給路を絶たれてしまいました。。。
そしてこの日 城内 会津藩主 松平容保公は
重い重い決断を下しました。。。
★容保公の決断
先日 西軍参謀 板垣退助が米沢藩を通し
進言した 降伏勧告
会津藩主 松平容保公はこの日 悩みに悩んだ末
結論を出しました
『開城 降伏する』
こう決断した容保公は 降伏の使者を米沢に送りました
籠城二十六日目...
容保公 悩みに悩んだ末の
苦渋の決断です。。。
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