幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
今日から14日まで 城内においては
大きな争いや動きはありませんが
相変わらず 無数の砲弾が鶴ヶ城本丸めがけて
襲い掛かる日が続いています
ところ変わって 城外・郭外においては
至る箇所で 小競り合い ゲリラ戦を含め
西軍との戦いが続けられています
★田島では、農民達が、陣屋に陣取っていた
西軍を襲撃して追い出しました
農民の皆さんも 後方援護してくださっていたんですね
★小野田隊、砲兵隊、進撃隊などが、大内村に到着しました。
これを受け 佐川官兵衛は
所隊を率い 大内から田島へ向かいました
籠城戦を続ける鶴ヶ城の食糧確保のため 南方ルートは
絶対に会津が確保しておく必要があるのです
★その頃鶴ヶ城近く
高田(現在の会津美里町)に西軍が攻撃
沼沢出雲隊が奮戦。これを撃退しました
沼沢隊はこれを必死に死守しました
★現在の喜多方市 新宮村の純義隊が
山崎の山上から西軍を攻撃し、敗走させました
★また、この日は喜多方 小田付に滞在していた
幕臣 大鳥圭介が
福島へ向けて出立しました
彼はその後、函館で戦うことになります
彼の会津戦争も、本日で最後となりました
そこで今日は 大鳥圭介さんについてのお話し
会津戦争で 徳川幕府の高官として
ただひとり 会津と共に戦ってくれたのが
幕府陸軍歩兵奉行 大鳥圭介さんでした
(ちなみにもう一人 戊辰戦争を幕臣として戦ったのが海軍副総裁 榎本武揚さん(実質的な海軍のトップ)会津には海が無いので 榎本さんは会津戦争には参戦したくても出来ません。後の函館戦争で土方さん達と一緒に五稜郭で戦うことになることは、皆さんご承知の通りです)
大鳥さんは 播州赤穂生まれ
お家は医者だったそうです
おじいさんが教育熱心な方で
圭介さんは 勉強をよくしたそうです
もともとは医者になるために勉強していたのですが
そのうちに軍事の文献を読むようになり
そちらの方向にどんどん興味を増していきました
時代の混乱期の中 幕府の中でトントンと出世し
とうとう陸軍のトップになりました
もともと武士ではない自分を引き上げてくれた!
自分を育ててくれたのは幕府だ!
そういう思いの強かった彼は 幕府がひっくり返った後も
幕府への恩返しのために 部下を率いて会津に向かいました
そういう『義』の考え方は 会津の武士と似ています
彼が学んだ岡山藩『関谷学校』も、日新館同様
人間の生き方などの、精神的な教育に熱心だったそうです
山王峠 母成峠 そして、斎藤一さんと共に戦った越後口北部戦線
彼は精一杯戦い抜きました
会津戦争においての彼は 連戦連敗でした
しかし 私は彼が無能な将校であったとは思ってはいません
この戦争 特に城外を転戦していた幕府軍にとって
食糧・武器の調達が あまりにも不十分でした
戦おうにも撃つ弾がないというような状態でした
事実 母成敗戦後 彼は武器食糧の調達を目的に
米沢藩に出向き それを断られ
やむなくまた戻って来たということもありました
私は、もしも大鳥さんにきちんとした兵站(へいたん)が整っていたら
彼はその能力を存分に発揮し
おおいに活躍したんじゃないかと思っています
この日 大鳥さんは会津を出立しました
ありがとうございました
たった一人で 幕府の『義』を守ってくださったあなたは
孤独に戦う会津にとって
斎藤さんと同様 絶望の中の一光だったと思います
ありがとうございました
幕府隊が去っても まだまだ籠城は続きます
以上 各地で戦闘が続いている144年前の9月9日からでした
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