幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
144年前の今日 慶応四年九月十日
今なお郭外の各地では
会津軍と西軍の戦闘が続けられています
★喜多方 新宮村の純義隊は、山崎村で戦いましたが
援軍がなく後退 塩川村へ退却しました
一方 この日 政局にも動きが出ました
★先日 降伏を表明した米沢藩から、喜多方熊倉にあった
会津軍本営に 降伏勧告の使者が来ました
もはや実をなしていない奥羽越列藩同盟
会津の孤立はこれで確定的となり‥
一縷の望みを託していた
援軍の期待も完全になくなりました‥
しかしながら藩兵の士気は少しも衰えません
命尽きるまで 徹底抗戦の構えを続ける会津兵でした
★人物探訪 秋月悌次郎
幕末の歴史好きな方なら 知らない人はいないけど
そうでもない方には あまり有名ではないかもしれない
今日はそんな会津藩士『秋月悌次郎さん』についてご紹介します
会津藩校日新館に学び、秀才として知られた彼
容保公の側近として仕え
容保公が京都守護職に任命されると、
公用方に任命され 上洛
幅広い人脈を作り 会津藩政におおいに貢献しました
『禁門の政変』では、薩摩藩と手を結び
会津藩兵の実質的指導者として活躍しました
その後 佐幕派から嫌われ 蝦夷に左遷
その間に薩長同盟が結ばれてしまい
慌てて呼び戻されるも 時すでに遅く‥
戊辰戦争が開戦
戊辰戦争では軍事奉行添役として各地に出陣しましたが
専ら裏方として活動し、戦場で戦う機会はありませんでした
降伏の際には戦火の激しい鶴ヶ城を必死で脱出し
米沢藩へ赴いて 西軍との取次ぎの協力を依頼
その協力により
土佐藩・薩摩藩などの西軍首脳に赴き
降伏を申し出ました
敗戦後は戦争責任を問われ
終身禁固刑となりましたが
明治五年に特赦により赦免され
その後 学校教師となりました
第五高校(現在の熊本大学の前身)勤務時には
同僚として ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
が一緒に勤務していました
維新後の苦難に立ち向かった悌次郎さんの人格は
同僚や生徒達に深い感銘を与え
誰とも分け隔てなく接する姿を見て 小泉八雲は
『神様のような人』と賞賛したそうです
激動の幕末会津藩の中心人物として活躍し
その後の人生は 時代を担う若者の教育に捧げた
会津武士は 77歳で、静かに息を引き取りました
『今日の落花は来年咲く種とやら』
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