幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
今日はこのシリーズの最終回
母成峠の戦いを会津戦争の起点と数え
はや三十三日目
144年前の今日 会津藩が降伏し
一ヶ月間守り通した鶴ヶ城を開城‥
慶応四年九月二十二日に
最後の
タイムスリップ‥
この日の朝八時
前日籠城婦人たちが涙しながら縫った
『降参』と大書された白旗が
鶴ヶ城に掲げられました。。。
この日の鶴ヶ城は
火が消えたようにひっそりとしていました
誰も声を発する者などいない
悲しすぎる程静かな鶴ヶ城です‥
同日正午
会津藩九代藩主 松平容保公は
萱野権兵衛、梶原平馬、秋月悌次郎らを従え
麻裃(あさかみしも)に刀も帯びず
降伏の場に赴きました
甲賀町通 この道路で降伏式が行われました
~その日の悔しさを八重さんが後に話してくれました~
『当日のことを思い出すと
私は残念で悔しくてなりません
私が一番悲しかったことは
容保公が降参に出られる時
大小の刀を差さず丸腰で、お供も少ししか
つけずに出られたことでした
武士が丸腰で出るなどということは
無かった時代です
容保公が丸腰で出られたことは
断腸の思いだったと思います
容保公は 供の者に サヤを抜いた
短刀を密かに持たせていました
もし 恥辱を受けた場合は
その場で自殺するおつもりだったのです‥』
降伏の場で容保公は
西軍の軍監中村半次郎の前で
荒筵(むしろ)に座り
謝罪文を提出しました
そしてこの時、西軍軍監の席には
大きな緋色の絨毯(緋毛氈:ひもうせん)
が敷かれていました
会津藩士らは
この日の屈辱を生涯忘れまいと
この絨毯の一部を切り取り
分け合ったといいます
これを会津藩士らは
『泣血氈(きゅうけつせん)』
と呼んでいます
その後容保公は
城内で藩士たちに
ねぎらいの言葉をかけ
戦死した藩士たちが埋葬された場所で
深く手をあわせた後
その日の夕刻 滝沢村の妙国寺に入り
謹慎の身となりました‥
その後 容保公が明治の世の
表舞台に立つことは
二度とありませんでした
この戦争の事について
五十九歳で亡くなるまで周囲に一切を語らず
ただ、亡くなったその日まで 孝明天皇から賜った
宸翰と御製を、肌身離さず身につけていました
会津が賊軍ではなかった唯一の証です
あまりにも犠牲の大きかったこの戦争の結果に傷心した
容保公の唯一の心の慰みだったのでした‥
そしてお城は開城
この一ヶ月間誰ひとりとして
侵入させなかったお城に
西軍が掛け声高らかに
入城してきました
八重たち会津勢は
三の丸から歯ぎしりをしながら
それを睨みつけることしか
できませんでした
開城時の鶴ヶ城です
ボロボロになりながらも
一ヶ月にも及ぶ籠城戦を耐え抜いた
会津の誇りです
城外戦を戦った会津藩兵も
開城降伏の報を聞き
次々と降伏していきました
最後まで戦い抜いた
佐川官兵衛も 翌二十三日
容保公が降伏謹慎した報を聞き
とうとう振り上げ続けていた
その刀を静かに鞘に納めました
ここに 会津は敗れました‥
開城のその夜八重は涙を流しながら
月に照らされた
三の丸の雑物庫の白壁に
句を書きつけました
『明日の夜は 何国(いづこ)の誰か ながむらん
なれし御城に 残す月影‥』
-END-
幕末戊辰会津戦争へのタイムスリップ
今回はこれにて終了します
明日から会津藩士にとって
さらに 辛く苦しい人生が
待っているのですが
今回のシリーズは
会津戦争の開戦から降伏開城までを
ひとつの区切りとさせていただき
このシリーズを終了いたします
母成峠の戦いから三十三日
鶴ヶ城籠城開始から三十一日
長い長い会津の戦いが
今日終わったのでした。。。
綴り続けたこのブログを
長期に渡り
読んでくださった方々
ありがとうございました
たくさんの感想をいただけたことが
私の励みでした
ありがとうございました
さあ!続きはいよいよ本番!
来年の大河ドラマ
『八重の桜』です
歴史は 面白い!今回、あらためてそう感じました!
『八重』を『会津』を
あまりにも時代の流れが速すぎた
幕末の歴史を
そして明治の八重の人生を
NHKさんがどんな風景で
どんなストーリーで表現してくれるのか
私も今度は視聴者として
とっても楽しみにしています!
楽しみ方は人それぞれなのが
歴史の面白いところ
私も数え上げたら キリがないくらいの
ワクワクで待ってます!
そして、みなさんも
みなさんの好きな
会津があると思います
100人が100種類のワクワクで
『八重の桜』を待ってますよね
一緒にワクワクしながら
待ってましょうね!
『八重の桜』
を楽しみましょうね!!!
一ヶ月間 ありがとうございました
ありがとうございました
今後もブログは
会津の今を、変わらずにお届けして
いきますので
よろしくお付き合いお願いします!
ありがとうございました
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