今日は山本八重子さんの
会津での足跡を追いかけてきました
全国的には
新島八重さんという名前の方が
認知度が高いですね
昨年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公
幕末のジャンヌダルクと呼ばれた
山本八重子さん
大河ドラマが始まるまでは
それほど世間の皆様の認知度は
高くなかったと思いますが
昨年はその名を全国に届けて貰いました
彼女の活躍ぶりは
八重の桜で十分に知らせてもらえました
昨年は八重子さんに関わる場所も
たくさんの観光客や歴女さんたちで
賑わっていたことと思います
大河が終わり
一時の熱気も落ち着いてきた今年
本日、快晴の空のもと
数少ない彼女の足跡を巡ってきました
会津若松市門田町一ノ堰
光明寺
ここは直接八重子さんの足跡ではありませんが
八重子さんの父 山本権八さんの墓があります
幕末戊申会津戦争時
玄武隊上士組に編入された権八さんは
鶴ヶ城籠城戦とは別に
城外で戦いました
そして、この地
『一ノ堰の戦い』で戦士
会津が降伏する5日前でした
こちらは山本覚馬、新島八重生誕地の碑
会津若松市米代二丁目
実際の生誕地はここから30mほど進んだ
こちらになります
今は空き地(駐車場)になっているこの地
この地で八重子さんが生まれたのです
近所だった高木時尾さん、日向ユキさん
伊東悌次郎君と、どんな会話をしていたのかな
どんな遊びをしていたのかな
そんなことを考えただけでワクワクします♪
ここで私の一考察
八重子さんは幼馴染からどのように
呼ばれていたのかな?
八重の桜ではユキさんは「八重姉(ねえ)」
時尾さんは「八重さん」と呼んでいました
八重子さんの名前は「八重」です
でも、当時(現代でもお年寄りなどはそう呼ばれている方もいます)
女性には「子」を付けて呼ばれることが
多かったようです
なので会津にいた当時の八重さんは
「八重子」と呼ばれていました
自分でもそう名乗っていたと思います
一般庶民ですと
「八重子姉(あね)」
と呼ばれるところですが
武家社会で生まれ育った彼女たちですから
「あね」を付けるまではいかなかったかな?
となると
快活で自由奔放なユキちゃんは
「八重子姉(ねえ)」
おしとやかでつつましやかな時尾さんは
「八重子さん」
日新館で武士の学びを受けている悌次郎君は
「八重子様」
かな?こんなどうでもいいことでも
考えると楽しいですよね♪
話しが横道にそれてしまいました...
今日伺った最後の場所はここ
会津若松市慶山二丁目
『大龍寺』
ここには八重子さんが建立した
『山本家の墓』があります
八重子さんが亡くなる前年
昭和6年に
バラバラになっていた家族の墓を
ここにまとめました
『山本家之墓』の墓標の文字は
八重子さんが書いたと言われています
山本八重子さんの足跡を巡った今回
いかがでしたでしょうか
会津にいらした時
機会があれば
また立ち寄っていただければ嬉しいです
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