2012年8月アーカイブ

幕末戊辰会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月三十一日にタイムスリップ!

今日は、少し視点を変えて

籠城中の城内の様子を見に行ってきました

 

籠城中の鶴ヶ城 城内を見渡すと

大人だけではありません

藩士の息子や娘達など 子供達もいました

 

そこで今日 私が注目したのは‥

籠城中の城内の子供達の日常!

120808西出丸.JPG砲弾が飛び交う中 子供達はどんな日常をすごしていたかな?

 

八重さんの回顧録からの引用です

 籠城中 子供達は 凧を上げて遊んでいました

その頃は 『凧は春風で天に昇る』 と言われていたので

私も、凧揚げは子供達の春の遊びだとばかり思っていましたが

秋のあの頃でも 中々よく 高く飛んでいましたよ

 

城内に上がっているこの凧を眺める事で 城外で戦う友軍は

 「城はまだまだ無事だ」と安堵したといいます

この凧は『べろくんだし』という唐人凧で、敵陣に

『あっかんべぇー』をしていました

やえちゃん特別出演で こんな感じかな(#^.^#)

やえちゃん凧あげ_edited-1.jpg また、他の子供は戦ごっこ 鬼ごっこなど

無邪気に遊んでいましたが

焼弾や砲弾、銃弾が飛んでくると

争ってこれを拾い おにぎりと交換してもらって

喜んでいました

ずいぶんと危険ですが

子供達はすっかり慣れきって

上手にこれを消し止め

再び城中の銃弾作り用にもってきてくれました

 

子供達も 遊びながらも役にたっていた

籠城戦中の鶴ヶ城の風景でした

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鶴ヶ城暦 1月から始めて はや8ヶ月

今日は 8月最終日の鶴ヶ城を撮ってきました

子供達の夏休みも終わり 明日からは9月だというのに

今日も 会津は快晴の青空です

気温も予想最高が35℃! 暑くなる前に行かなきゃ!

ということで、観光客もまだまばらな朝に回ってきました

ここからは言葉は不要!まだまだ真夏の鶴ヶ城をどうぞ

\(^o^)/

120831西出丸.JPG

120831公園.JPG

120831鉄門.JPG

120831走り長屋.JPG

120831本丸下より.JPG

120831本丸.JPG

青空に 威風堂々!

美しい鶴ヶ城をぐるりと一周撮影しました

美しいです(#^.^#)

鶴ヶ城暦 次回は9月某日でーす♪

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前のその日にタイムスリップし

その日あった出来事を紹介しています

今日 八月三十日は 私の調べた範囲では

特筆すべき大きな出来事が見当たりませんでした

もちろん、決して平和な一日だったという訳ではありませんよ

連日 砲弾は鶴ヶ城本丸を標的に撃ち続けられ

城内外の各地で戦闘もあったと思います

私が調べた範囲で

紹介する出来事が見当たらなかっただけです。。。

 

そこで、今日は 今回この

幕末へのタイムスリップシリーズのブログを書くにあたり

私が自分の中で決めた3つの事についてご報告します

このブログを開城までの1ヶ月間書き続けるにあたり

3つだけ、決め事を作りました

 

★その1★

日付は旧暦の日付にタイムスリップすること

(例えば今日八月三十日は新暦だと十月十五日だなんて野暮なことは言わないこと)

 

★その2★

元号は、明治に改められた9月8日以降も あえて【慶応四年】のままでいくこと

(籠城中の会津にあって、そんな政治の動きは知る由もありません)

 

★その3★

会津と対峙している軍を呼ぶ際【西軍】と呼び続けさせてもらうこと

(『政府軍』『新政府軍』『官軍』等の呼び名は今回使用しません)

 

この3つ やっぱり私も地元会津人ですので

心情を察して お許しくださいね

<(_ _)>

それでは明日以降も 幕末会津戦争へのタイムスリップ

よかったら見てくださいねー

 写真は去年秋の 磐梯山です

今年も、もう少しで稲が黄金色になりますよ(#^.^#)

磐梯山.JPG

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幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十九日

城下に続々と到着した西軍により

鶴ヶ城は東・北・西の三方向から包囲されることになりました

わずかに残された南の日光口方面も 次第に圧迫されるようになり

城は完全に包囲される不安がありました

120808鉄門.JPG籠城中の城内に食糧を入れるためにも

また 期待している米沢藩からの援軍のためにも

外部との連絡路は確保しておく必要があります

山川大蔵隊を始めとした各部隊が続々と帰城し

籠城開始直後に比較すると 兵力は充分あります

かくして 144年前の今日

鬼佐川!そう!!

『佐川官兵衛』率いる約千の兵が

城外に打って出たのでした!

この日出陣した者はすべて、着物に

「慶応四年戊辰八月二十九日討死 何某 生年何歳」

と墨で書き付け、戒名までつけて出陣したそうです

夜も明け始めたころ、ラッパを吹き鳴らしながら

西出丸より出陣

20120722西出丸入口.JPG

西軍の手によって焼き払われ、長州や大垣、備前の兵が

守っていた 城西地区に攻め入りました

銃を放ち、剣を振るって敵陣に肉薄すると

西軍の兵達は皆 散り散りになって

近くの長命寺 境内へと逃げ込みました

120824長命寺庭.JPG

会津兵は三方向から長命寺に突入し

ついにこの寺を占拠!

しかし それもつかの間

土佐の援軍が駆けつけ猛反撃

土塀には戦闘の激しさを示す弾痕が今も残されています

120721長命寺土塀.JPG

会津も迎え撃ちましたが、土佐の猛攻は猛烈を極め

多くの戦死者を出しながら

長命寺からの撤退を余儀なくされました

会津兵の死者百七十名(佐川官兵衛の父もこの中にいます)

負傷者九十三名(このうち二十三名は後に死亡)

120721長命寺戦死墓.JPG佐川官兵衛はこの戦いの後 大方の兵を城に帰還させ

自らは手兵を従えて城外に本営を構え

その後 更に西軍に熾烈な城外戦を挑み続け

城外からの食糧を運ぶ道の確保を図っていきます

会津が降伏・開城したその後まで

最後まで戦い抜いた佐川官兵衛でした

彼のその後の活躍は また紹介することになると思います

 

~家老 佐川官兵衛~

幼児より勇敢活発、武術に長け

血気盛んな人だったそうです

容保公の『京都守護職』拝命後

藩主に従い京都へ。 別撰隊を組織し

京都市中の警護にあたり『鬼佐川』の異名をとりました

さしずめ、会津藩における新撰組のような存在ですね

 

そんな鬼官にも 可愛いところがありました

 

京都で結婚した官兵衛さん

その当日、京都の学校に槍の名人を招いて酒宴を開き

そのまま酔い潰れて寝てしまいました

後に、弟二人から、そのことを痛烈に叱られた官兵衛さん

両手を膝の上に置いて頭を垂れ 子供のように

素直に叱られていたそうです

さすがの鬼佐川も

『ならぬことはならぬものです』

の什の掟には反抗出来なかったようですね

 

以上 144年前の今日 長命寺の決戦でした

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幕末会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十八日は

娘子軍が戦火をくぐり抜け 無事入城を果たしました

入城後 竹子さん優子さんの母 中野こう子さんと八重さんの間に

こんな会話があったそうです

 『あなたはなぜ、娘子軍'(婦女薙刀隊)に入らなかったのですか?』

『私は、銃で戦おうと決めたので、薙刀隊には入りませんでした』

 

入城後の中野こう子、優子さん達娘子軍は、傷兵の看護や

食料の炊出しに励み、非戦闘員として大いに活躍しました

娘子軍は再び薙刀をとって戦場に立つことはありません

  120731本丸.JPG今日は 籠城戦の鶴ヶ城内においての

女性達の様子について、調べてみました

 

籠城女性を調べると 照姫の存在の大きさを知ります

容保公の義姉にあたる照姫は

戊辰戦争の際 鶴ヶ城内にあって

籠城五百人余りの婦女たちの崇敬の的として

彼女達の集団的行動を支えていました

籠城の際に活躍した主な婦人を調べると

そのほとんどが なんらかの点で

照姫に結び付いていました

120731北出丸.JPG戦ってばかりいるイメージの八重さんも

昼は負傷兵の看護をしたり炊出しをしたりしています

また、八重さんは 照姫の『御側約心得』を拝命しています

 

籠城中の藩士の妻・娘達及び奥女中は

照姫の統裁下に

★傷病兵の看護★炊事★弾薬製造

そして、★発火砲弾の処理 などの役割を担っていました

 

また 彼女達はみな 懐剣を持っていて

いざという時には城を枕に殉死する覚悟をしていました

 

籠城以来、毎日のように城内に砲弾が飛び交う中

会津藩の婦女たちは、平気で活動し

弾丸が飛んでくるごとに首をすくめている男のことを

笑っていたといいます

 

 彼女達もまた

刀や銃を持たずとも 照姫のもとで

気丈に戊辰戦争を戦っていたのですね

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幕末会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十七日

この日は 西軍に奪われた要所 小田山の奪回戦が行われました

 

★西軍の砲撃

八月二十五日に鶴ヶ城から東に約1.6kmの

『小田山』を奪取し 砲台を設置した西軍

大山巌指揮の下

本丸への砲撃が日ごとに激しさを増しています

120731西軍砲陣跡.JPG小田山をみすみす 西軍の手に委ねたという事は

十六橋を失ったのに次ぐ大失策といわれました

この日 木本蔵之丞率いる青龍士中一番隊大本隊は

小田山の奪還をこころみ 出撃しました

しかし 西軍の猛烈な狙撃を受け 隊長の蔵之丞はじめ

隊士らも山麓で戦死。奪還は果たせませんでした

西軍は 小田山に加え

城の西南950m『館の荒神』 1.9km『慶山村』

にも砲門を据え それぞれ天守閣を目標に

壮烈な砲撃を繰り返し 城内にも多数の死者を出します

特に 9月14日から行われる総攻撃は

まさに壮絶な砲撃の嵐になります。。。

120731小田山より城下.JPG小田山 西軍砲台跡地に掲げられた看板です

120731小田山看板.JPG

以上 小田山奪還に失敗した144年前の今日でした

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この日 午後からお休みの私

せっかく真夏の好天だから どっかドライブしよう

と 目的もなく向かった方向は 南会津方面

途中 この道を通ると条件反射で寄ってしまう芦ノ牧温泉駅へ

残念!ばす駅長は巡回中?だったのか、不在でした(>_<)

そのまま南下し、芦ノ牧温泉を通過

芦ノ牧温泉.JPG

ぶらぶらドライブ 道なりに進むと 名所『塔のへつり』に到着

塔のへつり全景.JPG

塔のへつり拡大.JPG

やっぱりすごい迫力です!自然の力のすごさをあらためて実感

塔のへつりで売っていた またたびを

我が家の愛猫へのお土産として購入し 出発!

またたび.JPG

今度は道の駅下郷さんで休憩

そこから見える景色が好きなんです\(^o^)/

下郷風景.JPG

ごめんなさい。道の駅では何も買わずに出発

田島に到着し、風景をぱちり

田島風景.JPG

その頃 南の空がどんどん暗くなってきました‥

でも、せっかく来たんだから もう少し南下してみよう!

と出発 南会津町を抜け 駒止峠を越えた頃には

ものすごい土砂降りとカミナリ(>_<)

道の駅きららさんの駐車場をお借りして、Uターン!!!

こうして ぶらぶらドライブは終了しました

駒止峠を再び越え 再度田島に入った頃は

雨はやんでいました。この日の会津の天気の境目を

身をもって体験した私でした

帰りに再び道の駅下郷さんに寄り

夏雲をぱちり

帰りの雲空.JPG

今度はソフトクリームをいただいて

愛猫の元へ帰りました(#^.^#)

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幕末会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十六日は

悲惨な会津戦争の中で 唯一と言ってもよい

痛快な出来事があった日でした

 

★敵前堂々入城 山川大蔵

怒涛の如く若松城下に押し寄せた西軍に対し

会津の主力部隊は全て国境守備のため出陣しており

城中は手薄でした

日光口の守備から帰城の途についた山川大蔵は

田島を出立

120803田島陣屋跡.JPG

大内宿を経て

120801大内宿.JPG

若松から一里ほどの地点にある下小松村

(現在の会津若松市北会津町)に着きました

そこから密偵を放って城下の様子を探らせたところ

西軍は既に城を包囲しており

城内には蟻の這い入る隙もないというこでした

大蔵はその夜 密かに一計を案じました それは‥

この村に伝承されている彼岸獅子

鼓笛を利用して軍楽隊を組織し

さながら西軍の別働隊に見せかけて入城しようというもの

962.jpg見破られれば全員死を覚悟しなければならない危険な賭け‥

大蔵は、村の長老達を呼んで協力を求めました

長老達は「松平三百年の恩顧に報いるのはこのとき!」

と 村人を集め、少年獅子隊を結成

八月二十六日未明 彼等を先頭に立てると

「通り囃子」を吹鼓しながら 西出丸から堂々の進軍を続けました

20120722西出丸入口.JPG

西軍はこの異様な鼓笛の音に

銃をつえにして ただ呆然と見送るばかり

ついには千五百名が誰も負傷することなく

見事 無血入城を果たすことができました

これには 城内にいた藩兵も大喝采!

籠城中の将士達は大蔵のこの入場によって士気を盛り返し

藩主容保公もまた 涙を流して喜び

大蔵の機知をおおいに賞賛しました

 

~山川大蔵~

「鬼佐川」「知恵山川」と敬意を持って呼ばれ

家老 佐川官兵衛と共に藩兵に慕われた人物です

 

今日のタイムスリップはこの一件だけにします

悲惨な会津戦争ですが

今日一日くらいは 痛快なまま終わってもいいですよね

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幕末会津戦争へタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十五日で

私がどうしても 話したかった人 それは‥

神保雪子

会津藩 六百石 井上丘隅の三女

藩老 神保内蔵助の長男 神保修理の妻

 

夫 修理は 鳥羽・伏見の戦いによって

容保公と会津藩兵の 離れかけた心(信頼関係)を

いまいちど 固く結び付けるために

(と、私は心から信じています)

敗戦の責任を一身に背負い 切腹しています

 

西軍が城下に押し寄せた八月二十三日

甲賀町口郭門で幼少寄合組を指揮していた

父 丘隅が、退路を断たれ すぐ近くにあった自分の屋敷に

戻ってみると 自刃の用意をしている

妻と長女 そして 雪子を見ました

丘隅は 雪子に 「お前は神保家に嫁いだ身なのだから

神保家の人々と生死を共にすべきだ」と叱り付け、家から出しました

 

雪子は実家を後にしましたが銃弾の飛来が激しく

嫁ぎ先の神保家までたどり着くことが出来ず西に廻りました

ここで、娘子軍と合流し 共に涙橋の戦いに

参戦したと言われています

 

そして 144年前の今日

慶応四年八月二十五日

涙橋近く 湯川の河原で 大垣藩が雪子を捕らえ

陣営のある長命寺に連れて来ました

120824長命寺庭.JPGそこに たまたま大垣藩陣営にやってきた 土佐藩 吉松速之助

庭に縛られている雪子を見て、どういうことなのか聞いてみると

「何も答えないので、殺すところです」

「女性を殺しても無益でしょう。助けてあげたらどうです」

「いや、これが我が藩の軍法。他藩の口出しは無用です」

というようなやり取りがありました

雪子は 吉松に

「自害しとうございます  お腰の物をお貸し下さい」

と求め 吉松は大垣藩の反対を押し切り

脇差しを貸し与えました

 

雪子はこの短刀をもって 自害し 果てました

衣服が乱れぬ様 正座した膝を結び...

鮮血が飛び散り あまりにも壮絶なその姿に

大垣兵らは戦慄し 正視することが出来なかったといいます

 

神保雪子 享年二十六才

 

夫も切腹し 父も義父も家族もみな二十三日の戦火の中 自害し

最後に自分自信さえも 壮絶な自刃を果たした

あまりにも不憫で悲しい女性です

 

ここからは私心です...

天国の雪子さん 間違っていたらクレームくださいね

 

この日の雪子さんの『心』は もはや身体には無かったと思います

愛する夫の無念の死を見送り

その夫が一番 危惧していた状況に

こうなることだけは避けたくて奔走した状況に

会津が 今まさに遭遇している

 

やっと夫のもとに逝けると決意した時に

生まれ育った家からも

実の親からも

それさえも許してもらえずに追い出され...

この日の雪子さんの『心』はもはや身体には無かったと思います

 

大垣藩に捕えられた時も

首をはねられようと 陵辱されようと

この日の雪子さんにはもうどうでもよかったんだと思います

 

そこに偶然来た 吉松さんの言葉で

雪子さんは 武士の妻 『神保修理の妻』であることを

思い出すことが出来たんじゃないかと思います

身体に『心』が帰ってきたんじゃないかと思います

 

最後に 会津武士の妻として

神保修理の妻として

凛とした死を遂げられたこと

吉松さんに感謝していると思います

私も 関係ないのに 吉松さんに感謝しています

 

私にとって 思い入れの強いこの女性の事を伝えたくて

文字ばかりになって申し訳ありませんが

今日は その②を書きました

 

これも 戊辰戦争の悲劇です

以上 144年前の八月二十五日からでした

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幕末戊辰会津戦争へタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十五日

この日は、越後街道で西軍との戦いがありました

 

★涙橋の戦い

120626涙橋2.jpg

柳橋 通称涙橋

入城に間に合わず 坂下の法界寺にいた

婦女薙刀隊(娘子軍)

中野竹子を隊長とする 女性だけのこの隊は

若松に向かおうとする衝鋒隊に同行し

若松に引き返すことになりました

そして 144年前の今日 夜九時頃

涙橋で、西軍と遭遇し、戦闘が行われました

娘子軍も皆、薙刀をふるって奮戦しました

120626竹子銅像.jpg西軍から「あれは女だ!生捕りにしろ!」という声

娘子軍はお互いに「生捕りの恥辱を受けてはなりませぬぞ!」

と励まし合いながら戦いました

そこへ。。。

一発の銃弾が竹子の胸へ‥(額という説もあります)

120626竹子殉節地碑.jpg

八重と並ぶ 会津の女丈夫の壮絶な最期でした。。。

竹子辞世

『もののふの 猛き心にくらぶれば

数にも入らぬ 我が身ながらも』

竹子の首は妹の優子によって介錯され

今も坂下の法界寺に眠っています

120626竹子墓.jpg

★西軍 小田山に砲台設置  

会津を取り囲んだ西軍は お城の東 約1.6kmの小田山に

砲台を設置しました

120731西軍砲陣跡.JPG

ここから望む城下は

120731小田山より城下.JPG

120731小田山より鶴ヶ城.JPG

これより鶴ヶ城に向けた

西軍の砲撃が本格的に開始されました

当初 砲弾は鶴ヶ城本丸まで届きませんでしたが

そのうち本丸にまで弾道距離が伸びるようになってきました

これは 薩摩藩の砲兵隊長 大山巌が

諸藩の砲兵を指導した結果でした

城中も、砲弾が本丸に届くようになり、慌てて

四斤山砲を豊岡に設置

DSCN0913.jpg

八重の夫(入城前に既に離縁していたとの説もあり)

川崎尚之助(会津では一般にしょうのすけと読んでいます)

と八重が応戦しました。四斤山砲は射程1km

この砲の仰角を上げ 火薬の量を増やし 小田山山頂まで届かせ

一時は小田山上の砲門を沈黙させたそうです

いずれにしても 小田山をやすやすと西軍に占拠されたことは

会津軍にとって 十六橋の要害を失ったのに次ぐ大失策でした

 

 今日はもうひとつ どうしてもお話ししたい人のお話しがあります。

その②へ続く 

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幕末会津戦争へタイムスリップ

144年前の八月二十四日

籠城戦 二日目のこの日はこのような戦いがありました

 

★天神橋の戦い

昨日の早朝、早くも鶴ヶ城の城下に殺到した西軍でしたが

今日に至っても城を攻め落とすことは出来ませんでした

長州藩の将 有地品之充は城の南側の防備が緩いことを知り

ひそかに隊 八十名を率いて

天神河原の対岸に大砲を据え

一気に三の丸に攻め入る構えを見せました

 

会津方は、実はこのとき

城内には隊を有する兵力は一隊もない状態でした

容保公は城中から人員を集めさせましたが‥

玄関前に集まった人員は

学者や官僚、無役の者ばかり 三十八名‥

集まった彼等は 城内の家族や 周囲の者たちに

死別の挨拶をつげ 廊下橋を渡り、いざ出撃

120710廊下橋.jpg

一団となって槍の穂先を揃え

大喚声とともに打って出ました

かくして天神橋の戦いが始まりました!

120801天神橋.JPG城内にいる家族や婦女子たちも 累上に駆け上がり

弾丸が飛び交うなかを、地団駄を踏みながら

声を限りに彼等に声援を送り 力を与えました

お小姓も累上から射撃で援護しました

有地の一隊はその不意に驚き

槍に突かれて倒れる者が続出し、退却

しかし、戦いに慣れていない事務方の城兵は 引き時が分からず

この時ばかりと深追いしすぎてしまいました

120801天神橋欄干.JPG対岸の狙撃兵から一斉射撃をあびてしまい。。。

かくて天神河原は敵味方の死屍で累々となり

湯川の水は真っ赤に染まりました‥

 

 

★八重 子供たちに頼まれる

その晩 八重は一人で夜襲に出撃しようと

夜の闇に乗じ、太鼓門まで来ると

カラフル2.JPG12歳の子供達が10人ほどいて

『八重様  夜襲に行くならぜひ私たちも同行させてください!』

と頼んできました

『こんな子供達も会津のために命を捨てる覚悟をもっているのか‥』

と、八重の目からは 涙がこぼれました

子供達を待たせ、容保公にこのことを相談したところ

『そのけなげな気持ちは大変ありがたいが、

女性や子供だけを出撃させるようなことがあっては

城内に兵がいないことを教えて回るようなものだから、控えてくれ』

と仰せられたため、子供達にその旨を説明し

この日の襲撃はやむなく中止しました

 

 

この日は 各地の国境の守備から戻ってきた隊が

城を取り囲む西軍と戦いながら

続々と鶴ヶ城に帰城してきた日でもあります

 

城下各地でこうした戦いが行われた144年前の今日でした

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★娘子軍 入城出来ず

登城を促す早鐘が城内になりひびく中

間に合わず入城出来なかった人々もいました

『中野竹子』

後に娘子軍といわれる 婦女薙刀隊の隊長です

母こう子 妹優子とともに鶴ヶ城に駆けつけた時

城門は既に固く閉ざされていて 中には入れませんでした

同じように入城出来なかった仲間と落ち合い

照姫が既に坂下に立ち退かれたという情報を得て

その護衛に当たろうと坂下に向かいました

しかしながら、結局その情報は誤報

その日竹子達は 坂下の法界寺に宿泊しました

120626法界寺.jpgこの2日後 壮絶な殉死が竹子を待っていることは

このとき誰も 夢にも思っていません‥

 

★新撰組 別離の時

一方 母成峠の戦いに破れ

一旦若松城下にちりぢりに逃れた

土方歳三、斎藤一 ら 新撰組の同士達は

塩川で再び合流 そのまま、現在の北塩原村

大塩裏磐梯温泉に集結しました

120630大塩裏磐梯温泉.jpg

ここで 土方歳三と斎藤一は 袂を分かつ事になります

 

更なる戦いの地を求め、函館へ向かう土方

義を最優先にして会津と共に死ぬことを決意した斎藤

 

どちらの覚悟も すごいことだと思います

(私は個人的には、二人の生き方のどちらも好きです)

かくして、この日この場所で

長年の同士だった土方と斎藤は

違う道を選び分かれました

 会津に残った新撰組隊士は

斎藤一以下 十三名でした

(※斎藤一はこの時は山口次郎と改名していますが

このブログでは一般的に知られている斎藤一で通すことにしました)

 

★八重 夜襲に出る

入城したその日

八重は、親友の高木時尾(後の斎藤一の妻)に

髪を切ってもらいました

城内で断髪した女性は 八重が初めてでした

その晩 八重は銃を携え 夜襲隊と共に

正門から出ました

カラフル1.JPG暗闇の中 敵に向かって銃を放ち

敵は混乱し、右往左往しました

もちろん 夜襲に加わった女性は 八重ひとりでした

 

 この日は会津の各地で

まだまだ色々な出来事があった日ですが

とても語りきれないので

 八月二十三日へのタイムスリップは ここで終了します

 以上 戊辰戦争で一番血が流れた144年前の今日でした

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★若松城下 最大の激戦の日

戸ノ口原を突破した西軍は 怒涛のように若松城下に

なだれこんできました

松平容保公の滝沢本陣にまで弾丸が飛来

120725滝沢銃弾跡.JPG 120725滝沢刀傷跡.JPG  滝沢本陣には、今も当時の戦闘の激しさがうかがえる

弾痕や刀傷の跡が生々しく残されています

 容保公はやむなく滝沢本陣を退きました

この日の戦闘は、戊辰戦争の中でも最大の激戦でした

戦死者四百六十余人 その家族の殉難者二百三十余人

 

★甲賀町口郭門の戦い

滝沢本陣を後にした容保公を 甲賀町口の郭門で

白虎隊士中一番隊などが出迎えました

その後 郭門前にて、向かってくる西軍を迎撃

容保公も この郭門で指揮を執るつもりでしたが

藩士の懇願を受け、鶴ヶ城に帰城しました

この門は、一旦は西軍に奪われましたが、藩境を守備していた

藩兵が次々と帰城を果たし、防御力も充実

やがてこの郭門を西軍より奪い返し、落城の日まで

会津の手によって守り通されました

120721甲賀町口郭門跡.JPG 

★籠城戦へ 八重入城

西軍の城下突入と同時に 城内では早鐘を鳴らし(画像:鶴ヶ城 鐘撞堂)

120731鐘撞堂.JPG藩士や家族に『入城すべし』と報せました

来年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公

『山本八重(子)』(新島八重)

も、鳥羽伏見の戦いで戦死した弟 三郎の形見の服を着て

大小の刀を挟み、鉄砲と弾薬を見に付けて

廊下橋から入城しました

20120722廊下橋.JPG

彼女の決意は 西軍と対決することだったと思います

城内に入城する婦女子の思いとはまた違い

弟 三郎の敵討ち!そして、お殿様を守る!

という思いが強かったと思います

入城時の八重は、紛れもなく 武士でした 

 

★家族・婦女子の殉難 もうひとつの会津戦争

この日 続々と城内に人が集まるのと平行して

場外では悲しい物語もあちらこちらでありました

例として 一番有名な 西郷一族の自刃を紹介します

会津藩筆頭家老 西郷頼母の妻 千重子は

頼母と長男が登城するのを見送った後 自邸にて

20120722西郷邸跡.JPG

敵に辱めを受けたり 味方の足手まといにならないようにと

一族 二十一人で、壮絶な自害を遂げました

二才、九才と、まだ幼い我が子を

心を鬼にして刺し殺し、そしてみずからも

『なよ竹の 風にまかする身ながらも

たわわぬ節はありとこそきけ』

の辞世を残し、喉を突いて自害

一族もまた、それぞれ喉を突き 自刃しました

120725なよ竹の碑.JPG 120725二十一人の墓.JPG

千重子を含む 殉難婦女を慰霊するために建てられた

『奈与竹之碑(右)』と、西郷一族『二十一人之墓(左)』です

この様な悲劇は、城下のたくさんの家で行われました

この日の殉難者二百三十余人は

この様な形で自ら命を絶った方々の数です。。。

 

 この日はまだまだ色んな出来事があった日です

その③へ続く

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144年前 慶応四年八月二十三日

戊辰戦争で、一番多くの人が亡くなった日。。。

この日は 会津にとって

忘れる事の出来ないことがあまりにも多すぎた一日です

そのため、ブログも何本かに分けて掲載します

 

★戸の口原の戦い★

勢い劣れずに行軍してくる西軍に対し会津軍は

若松への侵攻を阻止せんと 戸の口原にて戦闘を開始

120719戸ノ口原古戦場跡眺望.JPG白虎隊士中二番隊も この戦に参戦しました

(士中二番隊が戸の口原に到着するまでの経緯は割愛させてもらいます)

120719戸の口原古戦場跡.JPG西軍二千六百余り 会津軍五百余り

やはりここでも 圧倒的な兵力と火力の違いにより

ついに会津は総崩れとなりました

こうして、疾風のような西軍の攻勢の前に

会津は枯葉のごとく滑走していったのでした。。。

戸ノ口戦死者墓

120719戸ノ口戦死者墓.JPG

 

★白虎隊自刃★

修羅の場となった戸ノ口原 総崩れとなった味方の中

白虎隊 士中二番隊 副隊長 篠田儀三郎も

やむなく隊員に退却を命じました

お城へ戻るため、西軍を避けて谷を渡り、山道を這い

飢えと疲労にくじけそうになりながらも

お互いを励ましあい、洞門にもぐり込み

飯盛山のふもとに忍び出ました

120731洞門.JPGしかし、そこから山頂にたどり着いた白虎隊士の眼に映ったのは‥

120731白虎隊像.JPG

120731飯盛山城下.JPG

120731飯盛山鶴ヶ城.JPG

黒煙のなかに見え隠れしている鶴ヶ城でした

この光景を見下ろして、それまで持ちこたえていた少年達の気力は

ついに尽きてしまいました

『殿は城と運命を共にされたに違いない

われわれもここで潔く切腹し、君国に殉じよう』

だれ言うともなく言い出し、そして 自刃。。。

昨日の朝、意気揚々と鶴ヶ城に登城していった少年達

そんな少年達が 翌日 このような

悲しい最期を遂げることになってしまいました

野ざらしになっていた隊士の遺体があまりにも可愛そうだと

土地の人が西軍の目を盗み 夜な夜な

遺体を運び出し 妙国寺に埋葬してくれました 

120809白虎隊仮埋葬地碑.JPG

実際は  このときまだ 鶴ヶ城は落ちてはいませんでした

その後1ヶ月の籠城にも耐えた城です

きっと、白虎隊士たちの眼には

周囲の町家から上がる噴煙で

城そのものが燃えているように見誤ったのでしょう

 

切腹の直前 篠田儀三郎は文天祥の詩を高らかに吟じ

石田和助がこれを和したそうです

『人生古(いにしえ)より誰(たれ)か死無からむ

丹心を留取して汗青を照らさむ』

 

白虎隊の墓はその後 七回忌にあたる明治七年に

最期の地である飯盛山に改装されました

120523士中二番対墓.JPG 八月二十三日へのタイムスリップは

その②へ続きます。。。

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前日 母成峠を破られ

西軍は勢いそのまま 会津に進軍を進めています

そして 144年前の今日 慶応四年八月二十二日は

各地の状況がめまぐるしく動いた日でした

 

★白虎隊に登城命令が出され、少年達は、意気揚々と鶴ヶ城に登城しました

120808本丸.JPGこの少年達の中には、家が隣だった八重さんから、鉄砲の手ほどきを受けた

士中二番隊 伊東悌次郎少年(十五才)もいました。

 

★日光口を守備していた山川大蔵隊は、田島を退陣し、若松に向かい出発しました

120803田島陣屋跡.JPG

他にも各地で藩境を守っていた隊が続々と若松へ帰城するために出発しました

 

★猪苗代城主は、とうてい西軍を防ぎきれないと考え

城と士津神社に火をかけて退却しました  120525士津本殿.JPG↑士津神社  ↓会津藩祖 保科正之公 墓

120525正之公墓1.JPG

 

そして

★猪苗代湖から流下する日橋川に架けられた『十六橋』を落とし

西軍の行軍を止めようとした会津軍でしたが

あまりにも頑丈なこの橋を落とすことが出来ず、

この橋を西軍に占領されてしまいました

東軍側(左)西軍側(右)から見た十六橋

今は五代目だそうです(戊辰戦争時は二代目だったそうです)

120719十六橋西軍側.JPG 120719十六橋東軍側.JPG 

その頃 会津藩主『松平容保公』は

鶴ヶ城を出陣 滝沢本陣に向かいました

藩主出陣の先乗りに『家老 佐川官兵衛』

護衛に『白虎隊 士中一番隊、士中二番隊』が付きました

 

そして 容保公 滝沢本陣に到着

120725滝沢本陣.JPG

本陣に到着した容保公の耳に飛び込んできた急報は‥

十六橋が西軍の手に落ち、既に強清水(こわしみず)近く

戸ノ口原まで進撃しているとの報でした

(戸の口原:猪苗代と若松との間にある。広大な平原) 

120719戸ノ口原古戦場跡眺望.JPG国境の守備に兵力の多くを費やしている会津の現状‥

兵が足りない‥

 

容保公は 十五~十七才の少年部隊

『白虎隊 士中二番隊』に 戸の口原出撃の命を下しました

『こんな子供まで戦に出さねばならないのか‥』

白虎隊の出撃を決断した容保公の心中は

さぞ辛く苦しかったと思います‥

 

かくて、白虎隊士は 滝沢本陣から戦地

戸の口原に向かって出発しました

以上 144年前の今日の主要な動きでした 

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二本松城を攻略後

西軍は行軍の方向を会津に切り替えました

板垣退助・伊地知正治ら

西軍の大将が最終的に選んだ会津への進軍コースは

『母成(ぼなり)峠→猪苗代→若松』

薩摩・長州・土佐など約三千人の兵は

母成を目指して前日より前進を開始しました

そして 144年前の今日

慶応四年八月二十一日 早朝

母成峠にて、戦争が開始されました

120630母成風景.jpg

 

その後約1ヵ月に及ぶ 会津戦争の幕あけです

120630母成古戦場碑.jpg会津軍は、国境の各峠の守備に戦力が分散され、

更に、敵の行軍ルートとして最も有力視していた御霊櫃峠に

大砲などの火力を厚くしていたため

母成峠に陣していた部隊は

『大鳥圭介』率いる伝習隊 そして

『土方歳三』率いる新撰組など 約八百人

 

結果、圧倒的な兵力と火力の差により

会津陣営は次々と陥落

一日ももたずに壊滅して敗走しました

この戦いで戦死した兵達の埋葬地です

120630母成東軍埋葬地.jpg

圧倒的な力の差を見せ付けられ

あっけなく敗れた会津戦争初戦

西軍は 勢いそのままに、猪苗代に

進軍の速度を緩めず行軍してきます

120326猪苗代湖.JPG以上 会津戦争初戦

母成峠の戦いが行われた144年前の今日でした TOPへ.JPG

お盆も終わりの19日

会津若松駅前では

昨年より復活した『エキマエ盆踊り』が

今年も賑やかに開催されました

IMG_1029.jpg

心配された天気も

絶好の踊り日和となり

夕暮れ近くの駅前で

会津磐梯山の歌声が鳴り出すと

IMG_7866.jpg

櫓の廻りに踊りの輪が出来て

小学校の運動会以来(私にとっては)の

会津磐梯山が踊られました

私達も、おそろいのハッピを着て参加しましたよー

約50分 気持ちのいい汗が出始めた頃は

IMG_8543.jpg

あたりはすっかり夕暮れ

その後踊りは佐渡おけさ かんしょへと

続いていきました

私達は 気持ちのいい汗をかいた後

記念写真をぱちり

IMG_7862.jpg

そして、おいしい『泡』を飲みに

繰り出したのでした

\(^o^)/

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昨年 50年ぶりに再開した

『えきまえ盆踊り』

今年も 今夜開催です!

ちょっと 天気が心配ですので...

やえちゃんの着ぐるみは 出陣を見合わせますが

可愛いハッピを作りましたよー♪

背中にやえちゃんの絵が描いてある

ハッピで、盛り上がりたいと思います

たくさんの人が集まるといいですね♪

幕末 会津戦争へのタイムスリップ

144年前 慶応四年八月十八日

猪苗代 湖南の福良に宿営していた

 

120508福良御用場跡.JPG土方歳三『新撰組』

は、二本松方面への出陣のため

猪苗代城下に移動・宿陣しました

すでに猪苗代には

幕臣 大鳥圭介率いる『伝習隊』

会津兵、二本松兵なども集まっています

会津戦争が近づいています!

西軍は、御霊櫃峠から攻めてくるか

それとも、中山峠、母成峠。。。

緊迫した時間が流れている

144年前の今日でした

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小雨ぱらつく土曜日の朝です

地面が少し涼しくてすごしやすいかな?

明日 19日は

『えきまえ盆踊り』ですよー♪

昨年 震災復興を祈って50年ぶりに開催された

『えきまえ盆踊り』

今年も会津若松駅前で どーんと開催されます

楽しみ♪

つるかんも、参加しますよー

もしかしたら

動くやえちゃんも登場するかもしれませんよ♪

みんなで盛り上がりましょうねー

\(^o^)/

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第94回全国高校野球選手権大会

『夏の甲子園』

本県代表の聖光学院

3回戦進出をかけて試合に臨みましたが

惜しくも敗退しました

1回戦では、昨年の覇者を破るなど

私達は元気と笑顔と勇気をたくさんもらいました

選手のみなさん お疲れさまでした

そして ありがとうございました

上を向いて 堂々と帰ってきてね

県民一同 心からの拍手で

向かえますからね

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144年前 慶応四年八月十六日

南会津 只見町で 一人の侍が亡くなりました

銅像.JPG『河井継之助』

越後長岡藩の家老だった彼は

戊辰戦争にて西軍と対峙

会津の佐川官兵衛らと共に

越後戦を戦いました

敵の銃弾で重症を負い

会津へ向かう途中八十里越を越え

今の只見町(当時塩沢村)にて死亡しました

120509河井療養の真.JPG 120509河井終焉の間.JPG

越後戦はとても激しい戦いでした

彼もまた 武士としての筋を通して

戦った人です

彼の遺体は荼毘に付され

会津若松市建福寺の山あいに埋葬されました

120731埋骨地の碑(建福寺).JPG

残った骨は 只見町 医王寺にて

村人の手により手厚く葬られています

120803河井継之助墓.JPG

会津戦争が始まる約1週間前

彼が読んだ自虐の句

『八十里 腰抜け武士の 越す峠』

そんなことはありません!あなたは最後まで

武士道を貫き通し、自分の義を守り通した方です

ここに 最後まで会津の友だった彼の冥福を

心より祈ります...

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この夏 このお盆

会津に里帰りなされた方も

大勢いらっしゃったと思います

また 夏休みを利用して

会津に旅行に来られた方も

たくさんいらっしゃったと思います

それぞれの会津を楽しんでいただけましたでしょうか

会津の良さをあらためて実感していただけたら

とてもうれしいです

ツイッターのお友達 みーたんさん、秀さん、Eijiさん、あさみさん

他にもたくさんの方々からの

会津に来ましたよー♪

今会津ですよー♪

のツイート ありがとうございました(#^.^#)

明日からおいでになる のりのーりさんも

会津をたくさん楽しんでくださいね♪

そして、会津に来なくても

ブログやツイッターで

会津のこの夏を楽しんでくれた、たくさんの皆さん

ありがとうございます 感謝感謝の夏です♪

まだまだ夏の会津ですよー

これからも よろしくお願いします

(#^.^#)

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おはようございます

昨夜から雨が降り

今朝もぱらぱら

ずっと続いていた暑さも

ひとやすみの

会津のお盆です

夏休みで帰省中の学生さんや

お仕事お休みで帰省中の方々など

懐かしい顔が久々に集合している家庭も

多いと思います

ゆっくり 故郷の空気や味を楽しんで

リフレッシュしてくださいね

おかえりなさい

(#^.^#)

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毎日 いい天気が続く会津です

でも 7月後半のような

攻撃的な暑さは少しおさまったかな?

それでも まだまだ夏真っ盛りの会津です

本日は 五色沼の今をご紹介

到着したのが日没数分前という

ぎりぎりの時間だったため

鮮やかな色は期待しないでくださいね(^_^;)

廻りにはウグイスの鳴き声が聞こえ

沼に向かう道には

120809アジサイ.JPG

アジサイ!!!

これから夏かー Σ(゚дlll

と 一人ツッコミを いれながら

毘沙門沼をパチリ

120809五色沼.JPG

日没手前で、鮮やかな青はお伝え出来ませんが

短い夏の美しさをかもし出しています

夏の裏磐梯は 涼しくていいですよ

(#^.^#)

色んな顔を持つ会津でした

追伸

撮影を終え 沼を後にする頃には

どんどん真っ暗になっていきました

(ToT)

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毎日快晴が続いているお盆前

明日 8月10日は

会津の大イベントのひとつ

『柳津の花火大会』

です(#^.^#)

只見川河畔から打ち上げられる

スターマイン・ナイアガラ・尺玉

2500発の夜の花が

柳津の空に咲きますよ♪

楽しみですねー

\(^o^)/

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8月8日

末広がりの本日

まだまだ夏の陽射しがまぶしい

8月の鶴ヶ城を撮ってきました

西出丸石垣の上から望む鶴ヶ城             西出丸入って見上げた鶴ヶ城

120808西出丸.JPG 120808西出丸石垣上.JPG

今年初めてのロケーション 西側のお濠を廻る石垣の上からの鶴ヶ城

120808西側石垣上.JPG

鉄門入って本丸側から見上げた鶴ヶ城          鉄門内部から外に見える鶴ヶ城

120808鉄門.JPG 120808鉄門内側.JPG

鶴ヶ城公園から見上げた鶴ヶ城

120808公園.JPG

そして‥本丸から見る鶴ヶ城

120808本丸.JPG

空の青さと 雲の白さと

そして 美しい鶴ヶ城

お盆には、たくさんの方々に

この美しさを実感していただきたいです

(#^.^#)

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先日 『八重の桜』の音楽を担当される

『坂本龍一さん』が会津においでになりました

私はテレビのニュースで知ったのですが(^_^;)

ニュースでは、坂本さんが

樹齢600年といわれる銘木

『石部桜』をご覧になっていました

そこで!遅ればせながら

私も本日行ってきました!!

坂本さんが見た 夏の石部桜の風景を

どぞ!!!

120806石部桜.JPG

120806石部桜4.JPG

周りの田園の稲は丈を伸ばし

穂を付け始めています

緑の香りたっぷりの 夏の石部桜でした

ちなみに 今年の春に行った時はこんな感じ

120424石部桜.JPG

120424石部桜2.JPG

3ヶ月半の間に こんなに風景が違ってるんですよ(#^.^#)

坂本さんも、この風景を見ながら

八重さんへのインスピレーションを

育んでいかれたと思います

ドラマと同じくらい

音楽も楽しみですね♪

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8月に入ってから

毎日毎日 暑いですねー(^_^;)

全国的な猛暑と、連日ニュースは伝えていますね

 

会津も、今日も 35℃を越える猛暑日

夏ですから 暑いのは仕方ないか(>_<)

 

夏休みのプールは

子供達の声で賑わってるかな?

 

明日は神明神社のお祭りですね♪

たくさんの人が

夏祭りを楽しみに来ますね(#^.^#)

楽しいお祭りすごしてくださいね♪

でも 水分はこまめに摂ってくださいね!

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8月1日

まだまだ暑い日真っ盛りの

真夏の会津

夕暮れ間近の帰り道に

大内宿に寄ってみました

美里町側から氷玉峠を上り

120801氷玉峠.JPG

大内宿に到着しました

120801大内宿看板.JPG

時間は6時半過ぎ

 

120801大内宿2.JPG町の中は観光客はもういなく

道の両端を流れる水で

野菜を洗うおばあちゃんや

やっと暑さが和らいだ道端で

ご近所と世間話しをするお母さんなどなど

 

120801大内宿3.JPG夕方は地元の方々の時間ですね

120801大内宿.JPG

昼間は観光客の方々で

賑わう大内宿

夏の大内宿もいいですよ♪

夕方の地元の人の時間を邪魔しないように

私もそっと写真だけ撮らせてもらい

大内宿を後にしました

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おはようございます

8月1日 午前8時27分の

会津の空です

P1020612.JPG

雲ひとつない 真っ青な空の会津の朝です

今日も快晴!暑くなりますよー!

夏本番の8月に突入です!

8月も よろしくお願いします

\(^o^)/

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