幕末へタイムスリップ144年前の8/25その①~中野竹子の殉節~

幕末戊辰会津戦争へタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十五日

この日は、越後街道で西軍との戦いがありました

 

★涙橋の戦い

120626涙橋2.jpg

柳橋 通称涙橋

入城に間に合わず 坂下の法界寺にいた

婦女薙刀隊(娘子軍)

中野竹子を隊長とする 女性だけのこの隊は

若松に向かおうとする衝鋒隊に同行し

若松に引き返すことになりました

そして 144年前の今日 夜九時頃

涙橋で、西軍と遭遇し、戦闘が行われました

娘子軍も皆、薙刀をふるって奮戦しました

120626竹子銅像.jpg西軍から「あれは女だ!生捕りにしろ!」という声

娘子軍はお互いに「生捕りの恥辱を受けてはなりませぬぞ!」

と励まし合いながら戦いました

そこへ。。。

一発の銃弾が竹子の胸へ‥(額という説もあります)

120626竹子殉節地碑.jpg

八重と並ぶ 会津の女丈夫の壮絶な最期でした。。。

竹子辞世

『もののふの 猛き心にくらぶれば

数にも入らぬ 我が身ながらも』

竹子の首は妹の優子によって介錯され

今も坂下の法界寺に眠っています

120626竹子墓.jpg

★西軍 小田山に砲台設置  

会津を取り囲んだ西軍は お城の東 約1.6kmの小田山に

砲台を設置しました

120731西軍砲陣跡.JPG

ここから望む城下は

120731小田山より城下.JPG

120731小田山より鶴ヶ城.JPG

これより鶴ヶ城に向けた

西軍の砲撃が本格的に開始されました

当初 砲弾は鶴ヶ城本丸まで届きませんでしたが

そのうち本丸にまで弾道距離が伸びるようになってきました

これは 薩摩藩の砲兵隊長 大山巌が

諸藩の砲兵を指導した結果でした

城中も、砲弾が本丸に届くようになり、慌てて

四斤山砲を豊岡に設置

DSCN0913.jpg

八重の夫(入城前に既に離縁していたとの説もあり)

川崎尚之助(会津では一般にしょうのすけと読んでいます)

と八重が応戦しました。四斤山砲は射程1km

この砲の仰角を上げ 火薬の量を増やし 小田山山頂まで届かせ

一時は小田山上の砲門を沈黙させたそうです

いずれにしても 小田山をやすやすと西軍に占拠されたことは

会津軍にとって 十六橋の要害を失ったのに次ぐ大失策でした

 

 今日はもうひとつ どうしてもお話ししたい人のお話しがあります。

その②へ続く 

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