★若松城下 最大の激戦の日
戸ノ口原を突破した西軍は 怒涛のように若松城下に
なだれこんできました
松平容保公の滝沢本陣にまで弾丸が飛来
弾痕や刀傷の跡が生々しく残されています
容保公はやむなく滝沢本陣を退きました
この日の戦闘は、戊辰戦争の中でも最大の激戦でした
戦死者四百六十余人 その家族の殉難者二百三十余人
★甲賀町口郭門の戦い
滝沢本陣を後にした容保公を 甲賀町口の郭門で
白虎隊士中一番隊などが出迎えました
その後 郭門前にて、向かってくる西軍を迎撃
容保公も この郭門で指揮を執るつもりでしたが
藩士の懇願を受け、鶴ヶ城に帰城しました
この門は、一旦は西軍に奪われましたが、藩境を守備していた
藩兵が次々と帰城を果たし、防御力も充実
やがてこの郭門を西軍より奪い返し、落城の日まで
会津の手によって守り通されました
★籠城戦へ 八重入城
西軍の城下突入と同時に 城内では早鐘を鳴らし(画像:鶴ヶ城 鐘撞堂)
来年の大河ドラマ『八重の桜』の主人公
『山本八重(子)』(新島八重)
も、鳥羽伏見の戦いで戦死した弟 三郎の形見の服を着て
大小の刀を挟み、鉄砲と弾薬を見に付けて
廊下橋から入城しました
彼女の決意は 西軍と対決することだったと思います
城内に入城する婦女子の思いとはまた違い
弟 三郎の敵討ち!そして、お殿様を守る!
という思いが強かったと思います
入城時の八重は、紛れもなく 武士でした
★家族・婦女子の殉難 もうひとつの会津戦争
この日 続々と城内に人が集まるのと平行して
場外では悲しい物語もあちらこちらでありました
例として 一番有名な 西郷一族の自刃を紹介します
会津藩筆頭家老 西郷頼母の妻 千重子は
頼母と長男が登城するのを見送った後 自邸にて
敵に辱めを受けたり 味方の足手まといにならないようにと
一族 二十一人で、壮絶な自害を遂げました
二才、九才と、まだ幼い我が子を
心を鬼にして刺し殺し、そしてみずからも
『なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわわぬ節はありとこそきけ』
の辞世を残し、喉を突いて自害
一族もまた、それぞれ喉を突き 自刃しました
千重子を含む 殉難婦女を慰霊するために建てられた
『奈与竹之碑(右)』と、西郷一族『二十一人之墓(左)』です
この様な悲劇は、城下のたくさんの家で行われました
この日の殉難者二百三十余人は
この様な形で自ら命を絶った方々の数です。。。
この日はまだまだ色んな出来事があった日です
その③へ続く
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