幕末へタイムスリップ144年前の8/29~鬼官出撃!長命寺の決戦~

幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年八月二十九日

城下に続々と到着した西軍により

鶴ヶ城は東・北・西の三方向から包囲されることになりました

わずかに残された南の日光口方面も 次第に圧迫されるようになり

城は完全に包囲される不安がありました

120808鉄門.JPG籠城中の城内に食糧を入れるためにも

また 期待している米沢藩からの援軍のためにも

外部との連絡路は確保しておく必要があります

山川大蔵隊を始めとした各部隊が続々と帰城し

籠城開始直後に比較すると 兵力は充分あります

かくして 144年前の今日

鬼佐川!そう!!

『佐川官兵衛』率いる約千の兵が

城外に打って出たのでした!

この日出陣した者はすべて、着物に

「慶応四年戊辰八月二十九日討死 何某 生年何歳」

と墨で書き付け、戒名までつけて出陣したそうです

夜も明け始めたころ、ラッパを吹き鳴らしながら

西出丸より出陣

20120722西出丸入口.JPG

西軍の手によって焼き払われ、長州や大垣、備前の兵が

守っていた 城西地区に攻め入りました

銃を放ち、剣を振るって敵陣に肉薄すると

西軍の兵達は皆 散り散りになって

近くの長命寺 境内へと逃げ込みました

120824長命寺庭.JPG

会津兵は三方向から長命寺に突入し

ついにこの寺を占拠!

しかし それもつかの間

土佐の援軍が駆けつけ猛反撃

土塀には戦闘の激しさを示す弾痕が今も残されています

120721長命寺土塀.JPG

会津も迎え撃ちましたが、土佐の猛攻は猛烈を極め

多くの戦死者を出しながら

長命寺からの撤退を余儀なくされました

会津兵の死者百七十名(佐川官兵衛の父もこの中にいます)

負傷者九十三名(このうち二十三名は後に死亡)

120721長命寺戦死墓.JPG佐川官兵衛はこの戦いの後 大方の兵を城に帰還させ

自らは手兵を従えて城外に本営を構え

その後 更に西軍に熾烈な城外戦を挑み続け

城外からの食糧を運ぶ道の確保を図っていきます

会津が降伏・開城したその後まで

最後まで戦い抜いた佐川官兵衛でした

彼のその後の活躍は また紹介することになると思います

 

~家老 佐川官兵衛~

幼児より勇敢活発、武術に長け

血気盛んな人だったそうです

容保公の『京都守護職』拝命後

藩主に従い京都へ。 別撰隊を組織し

京都市中の警護にあたり『鬼佐川』の異名をとりました

さしずめ、会津藩における新撰組のような存在ですね

 

そんな鬼官にも 可愛いところがありました

 

京都で結婚した官兵衛さん

その当日、京都の学校に槍の名人を招いて酒宴を開き

そのまま酔い潰れて寝てしまいました

後に、弟二人から、そのことを痛烈に叱られた官兵衛さん

両手を膝の上に置いて頭を垂れ 子供のように

素直に叱られていたそうです

さすがの鬼佐川も

『ならぬことはならぬものです』

の什の掟には反抗出来なかったようですね

 

以上 144年前の今日 長命寺の決戦でした

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