いよいよ八重の桜も
開城・降伏の日を迎えますね...
5回目になった、このスケッチ紀行も
今回が最終回となります
最後にスケッチする風景は
西軍の総攻撃開始から開城・降伏まで...
慶応四年九月十四日から開始された総攻撃
小田山から毎日2000発を越える砲弾が
鶴ヶ城めがけて撃ち込まれました
そして、十四日の砲撃により家老山川大蔵の妻
登勢(とせ)さんが被弾しました
照姫様を守護していた彼女は
自分が重傷を負いながらも
照姫様の安否を気づかい
姫のご無事を聞いて安堵したと
言われています
夫 大蔵が駆けつける2、3時間前に
彼女は痛みに苦しみながら
息を引き取りました...
また、翌十五日の総攻撃の際には
こんな悲劇もありました
明け方の霧に乗じて 藩士の子供が
食糧調達のために城南に出て
かぼちゃをたくさん抱えて戻ってきました
しかし、帰城の途中
小田山からの砲弾に被弾し
右大腿骨を粉砕
自分では動くことも出来なくなり
抱えられて戻ってきました
十五歳のその少年は
手当てする八重さんの前で
決して泣きもせず
『痛い』とも言わずに耐えていました
その時 その光景を発見した
少年の従僕が驚いて駆け寄ってきました
そして、少年のこの惨状を見て
大声を出して泣き出してしまいました
少年は泣き続ける従僕に向かい
『泣くな!武士は仕方ないじゃないか!』
と、威厳のある元気な言葉で
叱り付けたそうです
この少年は、出血多量で
そのまま死亡しました
最後まで威厳を持ち武士のふるまいを
貫き通した十五歳の最後の秋でした...
少年は、痛いと泣きわめくことは
卑怯な振舞だと思ったのでしょうか...
そして、城外でも必死の攻防は続きました
九月十七日 新政府軍は
城南の一ノ堰(いちのせき)の会津軍を
二手から挟み込む形で攻撃
会津軍の中には
八重さんの父 権八さんもいました
この戦いで会津は破れ 権八さんも
この戦いで戦死しました
一ノ堰 光明寺
ここに、山本権八さんの墓が現在もあります
一方城内ではこの日容保公が苦渋の決断をしたのでした
『降伏をする...』
その後、降伏に向けた交渉が進み
九月二十二日 正午
甲賀町通りに設けられた会場で
降伏式が執り行われました
容保公は西軍の軍艦 中村半次郎の前で荒むしろに座り 降伏状を提出
その時西軍側には
大きな緋色の絨毯(緋毛氈:ひもうせん)
が敷かれていました
会津藩士らは、この日の屈辱を生涯忘れまいと
この絨毯の一部を切り取り
分け合ったといいます
これらを会津藩士達は
『泣血氈(きゅうけつせん)』
と呼びました
その後容保公は城内で藩士達に
ねぎらいの言葉をかけ
戦死者に深く手を合わせたのち
滝沢村の妙国寺に入り
謹慎の身になりました
その後 容保公が明治の世で表舞台に立つことは
二度とありませんでした
この戦争の事について容保公は
五十九歳で亡くなるまで周囲に一切を語らず
ただ、亡くなったその日まで 孝明天皇から賜った
宸翰(しんかん)と御製(ぎょせい)を
肌身離さず身につけていました
会津が賊軍ではなかった唯一の証です
あまりにも犠牲の大きかった
この戦争の結果に傷心した
容保公の唯一の心の慰みだったのでした‥
そしてお城は開城
籠城戦の間、敵の唯一人も
入城を許さなかった
名城『鶴ヶ城』の最後の雄姿です
どんなに砲撃を浴びようと崩れなかった、会津の誇りです
その後、城外戦を続けていた会津兵も
会津の降伏、容保公の謹慎の報を受け
次々と降伏。 ここに会津は破れました
開城のその夜
八重は涙を流しながら
月に照らされた三の丸の雑物庫の
白壁に句を書きつけました
『明日の夜は 何国(いづこ)の誰か ながむらん
なれし御城に 残す月影‥』
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