『八重の桜』第一次キャスト発表!
http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/cast/
きゃーきゃー(≧▽≦)♡
すごい豪華キャスト!!!
今から興奮してまーす
(((o(*゚▽゚*)o)))
やえちゃんも頑張らねばね
( ・`ω・´)bキリッ
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真っ白い大きな鳥居があるここは
猪苗代町『士津神社』です
正之公の人生については 今後少しずつ紹介することにして
本日はこの神社についてお伝えします
正之公は、寛文十二年(1672年)十二月十八日
江戸にて 六十二歳で亡くなられました
正之公は自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる
磐梯山麓に決めていたので 二代藩主 正経公は
遺言どおり墳墓の造営にあたりました
松平家の御廟にもひけをとらないほどの坂道を登り登り
見えてきました!正之公の墓
中には入れないので、格子のすき間からぱちり
会津の最初のお殿様 大切に大切に祀られています
士津神社入口には
おおっきな!!!『士津霊神之碑』
も建てられています
この碑は正之公の履歴を刻んだ石碑で
神社の碑石としては日本最大だそうです!
会津の最初のお殿様
保科正之公
彼の人生もまた たくさんの人々に敬愛されています
今も彼は 磐梯山の麓で
会津の人々を見守ってくれています
シリーズ『会津歴史紀行』
今日の旅の目的地はここ‥
ここは、猪苗代町と磐梯熱海町を結ぶ
『母成峠』です
白河 棚倉 守山 三春と攻略・帰順し
ついには二本松も落城
西軍率いる『板垣退助』『伊地知正治』は
雪が降る前に会津を攻略したいという思いから
ここから北進をやめ
標的を会津攻撃に絞ることになりました
そして、迎え撃つ東軍と西軍が対峙した決戦の場
それが母成峠です
母成グリーンラインの駐車場に建てられた碑
慶応四年八月二十一日
会津藩、仙台藩、二本松藩、そして新撰組など
総勢800余名の東軍は
土佐藩、薩摩藩、長州藩など
3000余名の西軍と激戦しましたが
最後はなだれのように敗れたそうです
峠の北西部には
『東軍殉難者埋葬地』がひっそりとあります
母成での東軍戦死者の遺体は当時
埋葬を許されず 戦後しばらくの間放置されていましたが
これを見かねた近くの人々が西軍の眼を盗んで
遺体を集め 仮埋葬したそうです
その後この地は雑草に覆われてその所在が
分からなくなっていましたが
百年以上のちに、発見され
今は上の慰霊碑が建てられています
母成を破られ 戦いの場はいよいよ
会津に移っていくのでした
夕方 會津の歴史本をパラパラめくっていたら
ふと目に止まった頁のセリフ‥
【新撰組は会津藩へ来る途上であちこちで戦い
隊員は多く戦死し 今は十四人しか残っていない
今後も生きて隊名を残したいとも思うが
今 会津が落城しようとしているのを見て
これを見捨てるのは『誠』の精神に反する
母成峠で仙台行きを 約束はしたが
自分たちは後願を思わず 隊名とともに
ここで死のうと思う】
新撰組 斎藤一(当時 山口次郎)が
新撰組本体を土方歳三に託された
幕臣 大鳥圭介に
言ったセリフでした
この日の私は なぜかこのセリフが
心にぶわっと
(ToT)
きてしまいました
如来堂に行きたい!斎藤さんに逢いたい!
という理由で その思いを抑えきれずに
夕暮れの如来堂に来てしまいました
斎藤一 率いる『新撰組会津残留組』は ここ、如来堂にて
最後の激戦に身を投じました
そして、戊辰戦争での新撰組の会津での活躍は
私は個人的に ここ 如来堂が大好きです
なぜか 気持ちが落ち着く場所です
何故か気持ちを穏やかにしてくれます
誰にでも そんな場所がありますよね
(#^.^#)
遠くに夕日が映えるのを感じながら
斎藤一の面影を浮かべながら
ぼーっと、暗くなるまで
新撰組に寄り添って過ごしたこの日の夕方でした
おかげで穏やかな気分で帰宅できました♪
ゆっくりと、たったひとりで歴史と向かい合える
地元ならではの 贅沢な時間を
すごすことができました
(#^.^#)
春うらら♪
昨日とは打って変わり
好天の会津若松市
(#^.^#)
今日は久々に春の飯盛山のご紹介♪
まずは有名な『白虎隊士中二番隊 自刃隊士の墓』
戸ノ口原の戦いに出陣した隊士が
戦いに敗れてお城へ戻る途中
ここ 飯盛山から見た鶴ヶ城が燃えていると
勘違いし自刃しました
自刃の地から見た城下町若松
お城は分かりますでしょうか?
ちょっと拡大
当時の彼らの心中を察すると
心が痛くなります‥
ここ 飯盛山には『自刃隊士の墓』以外にも
たくさんの墓や碑があります
戊辰の役において戦い 『戦死した白虎隊士の墓』
白虎隊士外の14歳~17歳で戦死した
『少年武士慰霊碑』
戊辰の役で自刃または戦死した婦女子二百余名を
慰霊するため 旧藩士 山川健次郎氏等によって建立された
『会津藩殉難烈婦の碑』
戊辰戦争当時 自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し
会津藩主 松平容保公が詠まれた弔歌碑
『幾人の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽じとぞ思う』
まだまだ見所がたくさんある飯盛山です♪
会津にいらしたら 鶴ヶ城と共に 欠かせない
訪問箇所ですね(#^.^#)
会津若松市 七日町通りにある
この銀行
ごめんなさい(>_<)
今日は銀行さんのご紹介ではありません
この銀行の入口近くにあるこの碑と看板
これが今日の目的地です
『清水屋旅館跡』
この場所には『吉田松陰』『土方歳三』など
多くの歴史的人物が訪れた
『清水屋』という旅館がありました
幕末の志士たちに大きな影響を与えた吉田松陰は
東北各藩の歴訪の大旅行の際
中でも会津藩には特に強い関心を示し
二度に渡って訪れました
その際の宿がここでした
また、戊辰戦争 宇都宮城の攻防で
足を負傷した土方歳三が運び込まれ
治療を受けたのもこの旅館です
江戸・明治・大正にわたって
会津の歴史を見つめ続け
昭和初年に惜しまれながら取り壊されました
(文章:看板より参照させてもらっちゃいました(^o^)丿)
今日の歴史紀行
会津若松市 日新町の『長命寺』
入口左には忠魂の碑があります
また 外装の塀には無数の弾丸の跡が‥
ここ 長命寺は 戊辰の役の際
会津軍と西軍の 激しい攻防戦が繰り広げられた激戦地でした
塀に無数に残るこの鉄砲弾が
その戦いのすさまじさを物語っています
その後には おびただしい数の遺骸が残りました
しかし 会津藩士の遺骸は
埋葬が許されず翌年の雪溶けまで放置されました
時の住職が見かねて付近の遺骸を密かに埋葬
墓碑は明治11年に旧会津藩士の有志により建てられました
表示されることを許されませんでした
当時の先人の無念を思い
心から 合掌‥
先日 河井継之助の埋骨地について
ご紹介しましたが
今回はそれを含めた 会津における
継之助の道程を紹介します
戊辰戦争において
最も熾烈を極めたといわれる
北越戦争に破れた長岡藩
そして 自らも重傷を負った継之助は
会津へ向かいます
『八十里 腰抜け武士の 越す峠』
という自嘲の句を詠んだそうです
峠を越え 会津領に入り
慶応四年八月十二日に塩沢村に入ります
現在の只見町です
この町で不安定な容態となり矢沢邸にて療養
実際に療養していた部屋です(以上写真:只見町河井継之助記念館)
しかし 療養むなしく八月十六日帰らぬ人となりました
終焉之地碑(同記念館)
継之助の遺体は荼毘に付され 遺骨は
会津若松市 建福寺の東側 小田山の中腹に埋められました
戦後 遺骨は長岡に運び出され
現在栄凉寺に再び埋葬されました
また 終焉の地 只見町に残った遺骨は
村人達により 手厚く葬られ医王寺に埋葬されています
医王寺 継之助の墓(会津藩医松本良順と長岡藩医阿部宗達により墓石建立)
今回は 継之助が会津で過ごした短い時間を巡りました
故郷長岡にも記念館や墓があります
長岡では 継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として
継之助を恨む者たちによって、何度も倒されたりもしたそうです
戦争責任者として継之助を非難する言動は
継之助の人物を賞賛する声がある一方で
明治以後、現在に至るまで続いているとのお話しも聞きます
でも ここ会津では 河井継之助は
遠く越後から 最後まで会津の味方でいてくれた
大恩があります
やはり 感謝と尊敬の念を込め
只見のお墓もお参りしてきました
今回のリポートはここまで
最後に 今回 只見の記念館に到着したのは
午後5時(>_<)とっくに閉館(4時)過ぎていたのでした
なのに、どうぞ と、中を見せてくれた
記念館の職員さんに
深く感謝いたします
幕末 継之助を手厚く看護し もてなしてくれた
只見の方々の親切なお心は
100年以上過ぎた今も風土として
残っているなぁと
会津サイコォーと
あらためて感じました
\(^o^)/
今日は
お城に程近い
小田山の中腹に建てられている
埋骨の碑をご紹介します
『河井継之助君埋骨遺跡』
と記されています
河井継之助
越後 長岡藩家老の彼は
戊辰戦争の際 会津藩を守るべく
西軍との間に入り両者の和睦を図ってくれた方です
和睦が無理となった後は
西軍を向こうに回し
激戦の末敗れました
傷を負った河井も
八十里越えを越えて会津へ向かう途中
命果てました
彼の骨が埋骨されているとされるのが
ここ小田山 建福寺から東のこの地です
遠く越後の会津の友に
感謝と尊敬の念を込め
合掌
なお この小田山は
歴史的な知見から見ると
宝の山です
芦名のお殿様の御廟
柴四郎 五郎 の墓
八重が練習していた砲術練習所...などなど...
機会があったら ご紹介しますね
会津歴史紀行
本日は郡山市湖南町にある旧跡
『福良御用場跡』と『福良御本陣跡』
をご紹介します
まずは『福良御用場跡』
郡山市湖南町にあるこの旧跡
新撰組の宿舎があった場所です
建物は最近取り壊され
蔵がぽつりと残っています
この辺りで 土方歳三の最後の手紙と
思われる書状が発見されたということです
続いては『福良御本陣跡』
碑は 御用場跡から程近い
民家の裏にひっそりと立っています
もし ここに行こうとする方がいましたら
なかなか発見しにくい場所ですから
根気よく探してくださいね
ここでは 宇都宮の戦いで
負傷し 療養中の土方と
隣りの宿舎にいた白虎隊士の
暖かい交流が書き残されています
凄惨な戊辰戦争の戦火が
会津に襲い掛かる ほんの手前の
安らぎだったのでしょうか
湖南側から見える猪苗代湖
この日は もやっていて
湖の先の磐梯山はぼやっとしか見えませんが
幕末 土方も ここから猪苗代湖
そして磐梯山を望んだのでしょうか
そう考えながら眺める湖は
時間の経過を引き戻してくれそうに
感じました
隣に土方がいるような
そんな感覚の湖南・福良でした
天保六年(1835年)五月五日
現在の東京日野市に
一人の漢が生まれました
『土方歳三』
新撰組 鬼の副長と恐れられた人です
今日は彼の慰霊碑が建てられている
天寧寺に行ってきました
八重桜がピンクの花を満開に咲かせている
ここ天寧寺には
新撰組局長『近藤勇』の墓があります
そして、その横に『土方歳三』の慰霊碑が建っています
左が『近藤勇』の墓
戒名『貫天院殿純忠誠義大居士』
松平容保公より与えられました
そして その隣に建つのが
『土方歳三』の慰霊碑
最後まで戦い抜く道を選び
鳥羽伏見 宇都宮 会津と
自分の生きる(死ぬ)場所を
探し求めていたかのように戦い移り
最後は遠く函館の地に散りました
戒名『歳進院殿誠山義豊大居士』
孤高の烈士の生き様は
今だ多くの人の共感を生み
この日もたくさんの方々が
花を手向けに来ていました
今年は会津の歴史と平行しながら
『新撰組』と会津の歴史も
紹介していきたいと思います
お楽しみに