先日 河井継之助の埋骨地について
ご紹介しましたが
今回はそれを含めた 会津における
継之助の道程を紹介します
戊辰戦争において
最も熾烈を極めたといわれる
北越戦争に破れた長岡藩
そして 自らも重傷を負った継之助は
会津へ向かいます
『八十里 腰抜け武士の 越す峠』
という自嘲の句を詠んだそうです
峠を越え 会津領に入り
慶応四年八月十二日に塩沢村に入ります
現在の只見町です
この町で不安定な容態となり矢沢邸にて療養
実際に療養していた部屋です(以上写真:只見町河井継之助記念館)
しかし 療養むなしく八月十六日帰らぬ人となりました
終焉之地碑(同記念館)
継之助の遺体は荼毘に付され 遺骨は
会津若松市 建福寺の東側 小田山の中腹に埋められました
戦後 遺骨は長岡に運び出され
現在栄凉寺に再び埋葬されました
また 終焉の地 只見町に残った遺骨は
村人達により 手厚く葬られ医王寺に埋葬されています
医王寺 継之助の墓(会津藩医松本良順と長岡藩医阿部宗達により墓石建立)
今回は 継之助が会津で過ごした短い時間を巡りました
故郷長岡にも記念館や墓があります
長岡では 継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として
継之助を恨む者たちによって、何度も倒されたりもしたそうです
戦争責任者として継之助を非難する言動は
継之助の人物を賞賛する声がある一方で
明治以後、現在に至るまで続いているとのお話しも聞きます
でも ここ会津では 河井継之助は
遠く越後から 最後まで会津の味方でいてくれた
大恩があります
やはり 感謝と尊敬の念を込め
只見のお墓もお参りしてきました
今回のリポートはここまで
最後に 今回 只見の記念館に到着したのは
午後5時(>_<)とっくに閉館(4時)過ぎていたのでした
なのに、どうぞ と、中を見せてくれた
記念館の職員さんに
深く感謝いたします
幕末 継之助を手厚く看護し もてなしてくれた
只見の方々の親切なお心は
100年以上過ぎた今も風土として
残っているなぁと
会津サイコォーと
あらためて感じました
\(^o^)/
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