幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
144年前の今日 慶応四年九月十九日
降伏に向けた動きが加速している144年前の今日です
秋月悌次郎はこの日 薩摩・土佐の両本営において
降伏を申し入れました
具体的な降伏条件の交渉を開始しています
その頃城内
容保公は重臣らに降伏の決意を伝えていました
いまだ西軍と戦っている藩士も多く
城内でも家老 梶原平馬を筆頭に
なお徹底抗戦を唱える
重臣も少なくありません
もちろん 容保公の決定には
反対者が続出でした
でしたが‥
容保公は
『みな、会津のため、私のために戦ってくれた
父は傷つき 子は討ち死にし 骨は地に積まれ
血は川となって流れている
もはやこれ以上は見るに忍びない
もし、みなが、なおも西軍と戦うというのであれば
私ひとりでも降りるつもりである』
と言いきりました
藩主にそこまで言われたら
家臣達も何も言えません
やむなく降伏を承知したといわれています
一方この日も 城外では‥
城外の佐川官兵衛はこの日も戦意は一向に衰えず
『まだまだ 戦いはこれからじゃー!』
兵たちに更なる奮励のゲキを飛ばしていたそうです・・・
降伏後の 後日談
★家老 佐川官兵衛の慟哭
開城降伏後の翌年 西軍は
容保公の恩赦と引換に
会津戦争の首謀者として
三家老(田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛)
に死罪を申し渡しました
しかし 田中と神保は西軍が城下に突入した
八月二十三日に既に自害しています
結果 萱野権兵衛が
この戦争の首謀者として
罪を一身に背負って死にました
そのことを聞いた佐川さんは
こう憤ったと言われています
『なんで萱野殿なんじゃ!
徹底抗戦の一番の首謀者なら
このわしじゃろうが!
わしこそが 死ぬべき男じゃろうが!
責任とって死ぬなら わしでいいだろうが!
萱野殿の殉死の上に
わしはおめおめと生きている訳にはいかん!
殺すなら 俺を殺せー!!!』
心からの叫びでした‥
‥
『‥所詮 わしはこの戦争の土壇場で
見かけの石高が上がっただけの下っ端家老‥
こんな命を投げ出したところで
なんの足しにもならぬのか‥
わしは何の役にもたたぬのか‥
萱野殿 申し訳ない‥』
佐川官兵衛は静かに
涙したそうです‥
以上 開城三日前
静かに終焉に向かう
会津藩でした。。。