144年前 慶応四年八月二十三日
戊辰戦争で、一番多くの人が亡くなった日。。。
この日は 会津にとって
忘れる事の出来ないことがあまりにも多すぎた一日です
そのため、ブログも何本かに分けて掲載します
★戸の口原の戦い★
勢い劣れずに行軍してくる西軍に対し会津軍は
若松への侵攻を阻止せんと 戸の口原にて戦闘を開始
(士中二番隊が戸の口原に到着するまでの経緯は割愛させてもらいます)
やはりここでも 圧倒的な兵力と火力の違いにより
ついに会津は総崩れとなりました
こうして、疾風のような西軍の攻勢の前に
会津は枯葉のごとく滑走していったのでした。。。
戸ノ口戦死者墓
★白虎隊自刃★
修羅の場となった戸ノ口原 総崩れとなった味方の中
白虎隊 士中二番隊 副隊長 篠田儀三郎も
やむなく隊員に退却を命じました
お城へ戻るため、西軍を避けて谷を渡り、山道を這い
飢えと疲労にくじけそうになりながらも
お互いを励ましあい、洞門にもぐり込み
飯盛山のふもとに忍び出ました
しかし、そこから山頂にたどり着いた白虎隊士の眼に映ったのは‥
黒煙のなかに見え隠れしている鶴ヶ城でした
この光景を見下ろして、それまで持ちこたえていた少年達の気力は
ついに尽きてしまいました
『殿は城と運命を共にされたに違いない
われわれもここで潔く切腹し、君国に殉じよう』
だれ言うともなく言い出し、そして 自刃。。。
昨日の朝、意気揚々と鶴ヶ城に登城していった少年達
そんな少年達が 翌日 このような
悲しい最期を遂げることになってしまいました
野ざらしになっていた隊士の遺体があまりにも可愛そうだと
土地の人が西軍の目を盗み 夜な夜な
遺体を運び出し 妙国寺に埋葬してくれました
実際は このときまだ 鶴ヶ城は落ちてはいませんでした
その後1ヶ月の籠城にも耐えた城です
きっと、白虎隊士たちの眼には
周囲の町家から上がる噴煙で
城そのものが燃えているように見誤ったのでしょう
切腹の直前 篠田儀三郎は文天祥の詩を高らかに吟じ
石田和助がこれを和したそうです
『人生古(いにしえ)より誰(たれ)か死無からむ
丹心を留取して汗青を照らさむ』
白虎隊の墓はその後 七回忌にあたる明治七年に
最期の地である飯盛山に改装されました
その②へ続きます。。。