今日は久しぶりに歴史について語っちゃお!
今日ご紹介するのはここです
会津若松市神指(こうざし)町にあるこの橋
でも、地元の人も 歴史好きな人も
この橋の事をこう呼びます
『涙橋』(なみだばし)
この橋は 会津と越後(新潟)を結ぶ
越後街道 湯川(ゆがわ)に架かる橋です
付近に道しるべとして
たくさんの柳が植えてあったので
柳橋と名付けられました
柳橋の200メートルほど下流の河原に
藩政時代の処刑場がありました
柳橋のすぐ脇には休み小屋があり
刑場に引かれる罪人は
井戸の水で家族と水盃を交わし
この場所で別れを惜しんだことから
通称『涙橋』と呼ばれるようになりました
処刑される人は ここから
柳ごしに見える
最後の磐梯山を見ていたと思います
ここ涙橋には もうひとつの歴史があります
こちらの方が歴史好きな方には有名ですね
『中野竹子』
『会津藩婦女薙刀隊』
通称 『娘子軍』 隊長
父は江戸詰めの藩士であったため
彼女も江戸の藩邸で生を受けました
才色兼備として名高い竹子さん
若松入りしたのは
会津が籠城戦を開始する
少し前のことだったそうです
慶応四年八月二十三日
入城を促す早鐘が鳴り響く中
竹子さんは 母孝子(こうこ)さん、妹優子さんと
髪を切ってこれを庭に埋め
死を決して鶴ヶ城に向かいました
しかし あまりにも早い敵の侵攻に
城門は固く閉ざされてしまい
竹子さん達は入城がかないませんでした
照姫様が坂下に逃れたという情報を聞き
護衛しようと坂下に向かうもそれは誤報‥
会津坂下町 法界寺に宿泊し
翌々二十五日に、再び入城を目指し
衝鋒隊(しょうほうたい)と合流し
再び鶴ヶ城を目指しました
その途中 ここ 涙橋で
長州・大垣軍と遭遇
戦闘が開始され
娘子軍も薙刀で奮闘しました
敵の銃弾を受けた彼女は
ここ涙橋で殉節しました‥
八重の桜では黒木メイサさんが演じます
今は舞台が京都の八重の桜
竹子さんは
その頃はまだ江戸藩邸にいるので
出番はもう少し先になります
会津の人が今だ敬慕するこの烈婦
八重の桜でも 涙なしでは見れません
最後に 彼女の辞世とともに
竹子さんに思いを馳せて
竹子さんの墓は 会津坂下町 法界寺にあります