歴史探訪~涙橋 会津戊辰戦争烈婦伝 中野竹子

今日は久しぶりに歴史について語っちゃお!

今日ご紹介するのはここです

会津若松市神指(こうざし)町にあるこの橋

130409涙橋上から.jpg名前を『柳橋』

でも、地元の人も 歴史好きな人も

この橋の事をこう呼びます

『涙橋』(なみだばし)

130409涙橋上流から.jpg

この橋は 会津と越後(新潟)を結ぶ

越後街道 湯川(ゆがわ)に架かる橋です

付近に道しるべとして

たくさんの柳が植えてあったので

柳橋と名付けられました

130409涙橋下から.jpg

柳橋の200メートルほど下流の河原に

藩政時代の処刑場がありました

130409涙橋から湯川.jpg

柳橋のすぐ脇には休み小屋があり

刑場に引かれる罪人は

井戸の水で家族と水盃を交わし

この場所で別れを惜しんだことから

通称『涙橋』と呼ばれるようになりました

処刑される人は ここから

柳ごしに見える

最後の磐梯山を見ていたと思います

130409涙橋より磐梯山.jpg

ここ涙橋には もうひとつの歴史があります

こちらの方が歴史好きな方には有名ですね

『中野竹子』

『会津藩婦女薙刀隊』

通称 『娘子軍』 隊長

130409竹子アップ.jpg会津藩士 中野平内の長女として生まれた彼女

父は江戸詰めの藩士であったため

彼女も江戸の藩邸で生を受けました

才色兼備として名高い竹子さん

若松入りしたのは

会津が籠城戦を開始する

少し前のことだったそうです

慶応四年八月二十三日

入城を促す早鐘が鳴り響く中

竹子さんは 母孝子(こうこ)さん、妹優子さんと

髪を切ってこれを庭に埋め

死を決して鶴ヶ城に向かいました

130409竹子右.jpg

しかし あまりにも早い敵の侵攻に

城門は固く閉ざされてしまい

竹子さん達は入城がかないませんでした

130409竹子左.jpg

照姫様が坂下に逃れたという情報を聞き

護衛しようと坂下に向かうもそれは誤報‥

会津坂下町 法界寺に宿泊し

翌々二十五日に、再び入城を目指し

衝鋒隊(しょうほうたい)と合流し

再び鶴ヶ城を目指しました

その途中 ここ 涙橋で

長州・大垣軍と遭遇

戦闘が開始され

娘子軍も薙刀で奮闘しました

130409竹子アップ2.jpgそして‥

敵の銃弾を受けた彼女は

ここ涙橋で殉節しました‥

八重の桜では黒木メイサさんが演じます

今は舞台が京都の八重の桜

竹子さんは

その頃はまだ江戸藩邸にいるので

出番はもう少し先になります

会津の人が今だ敬慕するこの烈婦

八重の桜でも 涙なしでは見れません

最後に 彼女の辞世とともに

竹子さんに思いを馳せて

130409竹子ポスター.jpg

竹子さんの墓は 会津坂下町 法界寺にあります

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