幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
籠城開始から二十二日目
144年前の今日 慶応四年九月十三日
この日は 西軍が 鶴ヶ城総攻撃を計画した日でした
しかし この日は朝から雨がふる会津
やむなく 西軍は総攻撃を翌日の十四日に延期しました
鶴ヶ城に籠城する容保公始め会津藩の人々には
もちろん そんなことを知る由もありません
天に助けられた今日の鶴ヶ城でした
そこで本日は 特別企画を考えました
籠城戦中の会津藩主『松平容保公』の胸中
について考察してみました
長い文章になってしまいましたが ご覧下さい
★藩主『松平容保』の胸中
ふー‥籠城に入って今日で何日目になるかのぉ‥
毎日 雨のように降ってくる砲弾 日に日に増える死傷者‥
城外でも (佐川)官兵衛らの奮戦の報が
毎日の様に伝えられてくる‥
家来の皆は わしの顔を見るたびに
『殿 まだまだやれますぞ!
会津はこれくらいではへこたれませんぞ!』
と 曇りの無い笑顔で語りかけてくれる
すまぬ。。。大切なおまえらに
このような苦難を与えることになって。。。
そもそもの始まりは
京都守護職の台命が下された時であった‥
あの頃わしは病床にあり
その様な大役を受けられる体調ではなかった
一橋公(徳川慶喜)らの要請にも
当初は 再三にわたって辞退したのだが‥
(西郷)頼母や(田中)土佐ら、家老の者たちも
慌てて会津から江戸に駆けつけ
必死に就任を思いとどまる様
わしに進言したものじゃ
京都守護職の就任を受諾した
士津公 (はにつこう:会津藩祖 保科正之公)以来の
会津藩 家訓
『大君の義、一心大切に忠勤に存すべく‥』
(会津藩家訓第一条:将軍のことを一心に大切にして忠勤を励むべし‥)
猪苗代町 士津神社 保科正之公墓
あの頃の 将軍家(幕府徳川家)の辛苦を思えば
臣下として 台命を辞退することは出来ぬと考えたのじゃ‥
今思えば 頼母が言うたとおり あれが全ての始まりであった‥
あの時 台命を受けた結果が 今の会津の惨状となっている
家来や民が苦しみ 死んでゆく姿を 見るたび聞くたび
あの時の決断は間違っていたのかと
今でもわしの心に重く問いかけてくるのじゃ‥
京都での家来の活躍は わしから見ても素晴らしかった
尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる中
無政府状態であった京都を
わが会津は必死で守護し続けた
将軍家が 自分の身が危うくなって
江戸に引き上げたときも
会津藩は 最後まで京都に留まり
その任をまっとうした
士津公も この会津士道に満足して見てくれていたと思う
佐々木(只三郎)の見廻組や官兵衛の別選隊も
本当によく 奮闘してくれた
そして なんといっても 近藤(勇)らの新撰組は
本当によくやってくれたものじゃ
彼らは誰よりも武士に憧れ
それゆえに他の誰よりも武士道を貫き通してくれた
阿弥陀寺 斎藤一墓
孝明天皇も 会津を心から信頼し、頼ってくれていた
われわれは、決して朝廷に背き
天下につばをはく『逆賊』などではないことを
孝明天皇 御自らが
一番分かってくださっていたはずじゃ‥
世の流れが変わってしまったのは
その孝明天皇が崩御されてからだ‥
天皇の崩御により
会津にとっての心の拠り所が失われた
明治天皇に変わられて
とたんに朝廷内の倒幕派の動きが激しくなり
さらには いつの間にか
薩摩が長州と手を握って
倒幕路線に切り替わっていた
将軍となった一橋公は大政を奉還した
一橋公は それで全て ことが済むとお考えだったようじゃ
このまま 一橋公を議長とした諸侯会議で政治が
運営されると考えておられたようじゃ
しかし そんなに甘いものではない
岩倉(具視)公や西郷(隆盛)、大久保(利通)ら薩摩藩は
そのまま 倒幕への開戦へと持ち込みたい心から
旧幕府への挑発を執拗におこなった
そして幕府はこの挑発に乗ってしまい‥
西軍にとっての 倒幕戦が始まってしまったのだ‥
『官軍』 対 『賊軍』 の体をなして‥
鳥羽伏見の戦いじゃった‥
(林)権助や官兵衛ら会津が誇る猛者や
新撰組の面々が勇猛果敢に死闘を繰り広げる最中
わしは‥‥わしは 一橋公に強引に請われ
江戸に引き返してしまったのだ‥
戦いの最中に総大将がいなくなってしまうなど‥
今思い返しても痛恨の極み
家来に申し訳なく 血の涙を流した‥
修理(その責を一身に受けて切腹した 神保修理)
にも申し訳ないことをした‥無念だ‥
修理は以前から 恭順を強く進言してはいたが
戦いの最中に 総大将に江戸に戻れというような
おろかな進言など するはずもない
あのように 国の未来を頭に描きながら
今出来る最善の方策を思案出来る男を
あの様な形で失ってしまった‥
すまぬ!修理‥
鳥羽伏見に破れ 傷を負いながら
大阪から江戸に戻ってきた家来たちに
わしは心から謝った
そんなわしに
家来はこう言ってくれたのじゃ
『お殿様 会津に帰りましょう
一緒に会津に帰りましょう!』
涙が止まらなかった
我が決断の結果で こんなにも苦しめ
そればかりか
戦っている最中のお前たちを
心ならずとも 見捨ててしまったこのわしに
家来たちは 少しの恨み言葉も言わず
会津藩主として、わしに
一緒に会津に帰ろうと言ってくれた
幕府への忠義は充分に尽くした
もういいだろう!
これからは この 愛する家来と
共に会津だけを見ていこう!
西軍は 振り上げたこぶしを
会津を潰すことで
納めようと 軍を北上してくるだろう
会津が逆賊 朝敵などと言われる覚えは
ツユひとつもない!
後の子孫のためにも
会津に『義』ある事を
後世に残し伝えていくためにも
ここで武士道を貫き通し
会津の誇りを守り通して戦うことを
このとき わしは決意したのじゃ!
勝ち目など とても無いことは重々承知
しかし戦わなければならなかったのじゃ
『義』を貫き通したその先に
会津の未来があることを信じて
愛する家来や愛する会津の民のために
そして 後の世の子孫のために
会津が歴史の上で 逆賊などでは
決してなかったことを伝えるために
白河・二本松を落とし、母成を制した西軍は
わしの頭をはるかに越えた速度で会津城下に進行してきた
国境の守備にほとんどの兵を費やしていたあの頃
わしは城を枕に殉ずる覚悟で籠城戦に入ったのだ
自分の命など なんら惜しくはない
しかし‥ しかし‥‥
白虎隊や小竹女子(中野竹子)などの
少年や婦女子までも戦場で死なせ
さらには日に日に増える戦死者 負傷者‥
城内で義姉上(照姫)のもと 気丈に働き続ける婦女子達
武器や食糧も底を尽き始め
負傷者を手当てする薬も包帯も もはや無い‥
それでも 『大丈夫!まだまだやれますぞ!』
と、老若男女問わず 気丈に笑顔で
語りかけてくれる家来の顔を見ると‥
これ以上の抗戦を、まだ続けるべきか‥
今 わしは 悩んでいる‥
悩んでいる‥
(以上は、あくまでも私個人の考察であり、人それぞれに
歴史観・歴史的考証があると思いますので、その点はお許しください)
そんな容保公の思いに追い打ちをかけるように
明日から 猛烈な西軍の総攻撃が開始されるのでした‥