シリーズ『会津歴史紀行』
7月最初のテーマは!
戊辰会津戦争『母成峠の戦い』以降の
新撰組の会津での道程をマニアック?に紹介します
福良の本陣で白河の戦の傷を癒していた新撰組
慶応四年八月二十一日 母成峠の戦い
東軍戦死者の遺体は地元の方々が
こっそり埋葬してくれましたが 長らくその場所が不明
昭和五十三年に、母成の山中にてようやく発見
ここで戦死した新撰組隊士も 東軍兵士と共に
ここに埋葬されていると思います
母成で敗戦後 ちりじりに逃れた新撰組は
八月二十三日 塩川(現在の喜多方市塩川町)で合流
ここから 大塩裏磐梯温泉に向かい
幕臣 大鳥圭介隊らと共に この温泉に宿泊
ここで新撰組は
函館に向かう『土方歳三』達と
会津に残る事を決めた『斎藤一』達とで
運命を別つことになります
会津に残った『斎藤一』達は大鳥圭介隊と共に
山都(現在の喜多方市山都町)へ
九月二日 山都から西会津へ向かう峠
『陣ケ嶺峠』にて長州藩と戦闘
途中応援に来ていた『衝鋒隊』と共に
神指城 如来堂へ戻ります
そして‥待ち伏せしていた西軍と如来堂の戦い
会津に残った『斎藤一』
『(会津が)落城せんとするを見て、志を捨て去る、誠義にあらず』
と語り、更なる戦いの地を求めて函館に向かった『土方歳三』らと
袂を別ちました
(私は個人的に、両名の生き方のどちらも好きです)
その後 『斎藤一』は会津人として
生涯を貫き 没後は阿弥陀寺に眠っています
藤田家墓(戊辰後 藤田五郎に改名)
斎藤一忌が行われます
参考文献:石田明夫先生『考古学から見た会津の歴史』