私的にはすっかりお気に入りの
会津戦争スケッチ紀行
なんと言われようと続けます( ・`ω・´)b
お付き合いくださいね(ノ*´∀`)ノ
本日は第二段!
籠城開始から小田山の攻防です
慶応四年八月二十三日から
鶴ヶ城籠城戦を開始した会津藩
籠城3日目
この日 八月二十五日には城外で
こんな悲劇がありました…
照姫様が下ったとの情報を得て
その護衛をしようと
坂下(ばんげ)まで行った
中野竹子さん率いる娘子軍
しかし、その情報は誤報でした
城内に向かう味方軍と一緒に
若松へ戻る途中
娘子軍も薙刀で勇猛果敢に戦いました
その時一発の銃弾が竹子さんに
美しき会津の女傑
中野竹子さんの壮絶な最期でした…
『もののふの猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ我が身ながらも…』
同じ日 娘子軍とともに戦った
神保修理の妻 雪子さんは
湯川の河原で大垣藩に捕らえられ
首をはねられる直前 偶然訪れた
土佐藩士に脇差しを借り
彼女も壮絶な自害をし
夫が待つ場所に旅立ったのでした…
その頃若松の東約1.6kmのところにある
小田山が西軍に抑えられ
砲陣が設置されました
ここを奪われたのは
会津にとって大失策
敵はここから鶴ヶ城に向けて大砲を
撃ちおろしてくるのでした
しかし そんな中 知恵山川こと
家老 山川大蔵隊が
痛快な入城を果たしたのが
八月二十六日
日光口を守備していた山川隊が
急ぎ引き返して来たときには
鶴ヶ城は敵に包囲されて
蟻の入る隙もありません
そこで一計を案じた山川大蔵
会津に昔から引き継がれている
彼岸獅子を先頭に
笛太鼓の音色とともに
城に向かって行進
これには敵もあっけにとられ
銃を杖にして見送ったということです
かくして山川隊 1500名は
一人の負傷者も出さずに
西出丸より入城を果たしました
悲惨な会津戦争の中で
数少ない痛快な出来事でした
翌二十七日には青龍士中一番隊大本隊
による小田山奪回作戦を
決行しますが
敵の猛烈な狙撃により
壊滅に近い敗退
奪還は果たせませんでした…
砲撃を受ける鶴ヶ城
起死回生を期して 八月二十九日
鬼の官兵衛こと
家老 佐川官兵衛が
城外に打って出るのでした!
続きは次回です( ・`ω・´)b