幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ
144年前の今日 慶応四年九月十五日
前日から行われている西軍の総攻撃は
この日も容赦なく続けられました
雨の様な砲弾の嵐が鶴ヶ城に打ち込まれています
この猛烈な砲撃により城内では
たくさんの命が消えました
しかし 会津も まだまだ対抗!徹底抗戦を続けます
鶴ヶ城城南部で転戦していた
会津藩家老 一瀬要人(いちのせかなめ)
の軍は西軍と遭遇し 戦闘になりました
本郷村から萱野権平衛軍らも援軍に駆けつけ
会津軍は西軍を退けることに成功しました
しかし、この日の戦いで 会津軍は一瀬要人など
多くの指揮官を失ってしまいました
一ノ堰 光明寺 一瀬要人の墓
会津戦争では越後口総督となり
桑名藩や長岡藩の河井継之助らと共闘し
北越戦線を転戦した方です
この日の戦いで重傷を負った彼は療養中の二十二日
開城を知らせる容保公からの親書を受け取った
後 静かに息を引き取りました
そんな中 桃沢彦次郎と米沢藩士針生虎之助は
高田の佐川官兵衛に降伏を進言しました
鬼カンこれに激怒して一蹴!
『降伏開城などありえん!帰れ帰れ!!』
まだまだ徹底抗戦以外ありえない城外戦です
その頃 城内ではこんな出来事も
★泣くな武士は仕方ない
総攻撃中、ある少年が、明け方の霧に乗じて
食糧の調達に 城南に出て
かぼちゃをたくさん集めまして
そして 帰城の途中 二の丸南門の近くで
小田山からの砲弾に被弾しました
右大腿骨を粉砕され 人に担がれてきましたが
腰が立たないので 私は大きな石に寄りかからせ
草履をとり、袴を脱がせて手当てをしてあげました
その少年は 少しも泣かず また
『痛い』とも言いません
その時、やぐらからその光景を発見した従僕が
驚いて駆け寄ってきました
そして、少年のこの惨状を見て
大声を出して泣き出してしまいました
少年はこの時 十五歳でしたが
泣き続ける従僕に向かい
『見苦しい!泣くな!武士は仕方ないじゃないか!』
と 威厳のある元気な言葉で叱りました
この 勇敢な少年は 出血多量で ついに
亡くなってしまいました
この少年の最後まで威厳を持った
武士としての振る舞いには 私も感服しました
‥以上 八重さん回顧録からの引用でした‥
会津藩には『什(じゅう)の掟』というものがありました
六才から九才の藩士の子供が
地区ごとに『什』という集まりを作り
仲間の家に集まってはこの言葉を繰り返し
その日の自分のふるまいを反省していました
一、年長者の言う事に背いてはなりませぬ
一、年長者にはおじぎをしなければなりませぬ
‥
そして、最後にこの言葉で〆られます
『ならぬことはならぬものです』
今の時代にはそぐわない内容もありますが
当時の会津の子供達は
理屈ではなく、会津武士の子として
自らを律していたのでした
この什の掟のひとつにこのような言葉があります
『一、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ』
この時亡くなった少年は『痛い』と泣き叫ぶ事を
『卑怯なふるまい』と思い、じっと我慢していたのでしょうか‥
いずれにしろこの少年にも『覚悟』があったのだと思います
籠城に耐えている全ての人々が
『覚悟』を持っていたのだと思います
雨アラレの様に降る砲弾に誰も恐れずひるむことなく
『覚悟』を持って向かいあっていたと思います
総攻撃は明日も続きます‥
この日 米沢に続き 仙台藩も降伏しました‥