今日ご紹介するのは
『蒲生氏郷公』
幕末からさかのぼること約280年前
豊臣秀吉の時代
小田原城討伐の功により
会津92万石を拝領した蒲生氏郷公
当時の黒川城に入り地名を『若松』と改めました
黒川城を七層の天守閣とし
『鶴ヶ城』と命名
現在の鶴ヶ城(五層)は
後の藩主 加藤明成公によって改築され
現在の形にいたっています
城下の整備を行い、その町づくりの跡
は今の会津の道路として残っています
鉤方の十字路は、その典型ですね
さらに、産業として 漆器や酒造を振興
屋根瓦製造のため
本郷焼などの会津陶磁器のもとを作りました
今も残る会津の伝統工芸の基礎を築きました
また、領民の意見を聞き、農業用水として
猪苗代湖の水を利用し始めたのも氏郷公でした
氏郷公が会津に残したものは
とても大きかったのです
キリシタン大名としても知られ
茶道においても
利休七哲のひとりだった風流人でもあります
会津若松市 神明通りの中にある興徳寺
ここに 氏郷公の墓があります
万物の構成要素・宇宙の元素を表現した
五輪の塔になっています
合掌‥
氏郷公の墓の近くには辞世の句を彫った碑が
『限りあれば 吹かねど花は散るものを
心みじかき 春の山風』
また、氏郷公の墓の近くには
会津松平家九代藩主
会津の最後のお殿様 松平容保公の
歌碑も建立されています
さとは 幾千代 榮えゆくらん』