幕末戊辰会津戦争へタイムスリップ
144年前の今日 慶応四年八月二十五日
この日は、越後街道で西軍との戦いがありました
★涙橋の戦い
柳橋 通称涙橋
入城に間に合わず 坂下の法界寺にいた
婦女薙刀隊(娘子軍)
中野竹子を隊長とする 女性だけのこの隊は
若松に向かおうとする衝鋒隊に同行し
若松に引き返すことになりました
そして 144年前の今日 夜九時頃
涙橋で、西軍と遭遇し、戦闘が行われました
娘子軍も皆、薙刀をふるって奮戦しました
娘子軍はお互いに「生捕りの恥辱を受けてはなりませぬぞ!」
と励まし合いながら戦いました
そこへ。。。
一発の銃弾が竹子の胸へ‥(額という説もあります)
八重と並ぶ 会津の女丈夫の壮絶な最期でした。。。
竹子辞世
『もののふの 猛き心にくらぶれば
数にも入らぬ 我が身ながらも』
竹子の首は妹の優子によって介錯され
今も坂下の法界寺に眠っています
★西軍 小田山に砲台設置
会津を取り囲んだ西軍は お城の東 約1.6kmの小田山に
砲台を設置しました
ここから望む城下は
これより鶴ヶ城に向けた
西軍の砲撃が本格的に開始されました
当初 砲弾は鶴ヶ城本丸まで届きませんでしたが
そのうち本丸にまで弾道距離が伸びるようになってきました
これは 薩摩藩の砲兵隊長 大山巌が
諸藩の砲兵を指導した結果でした
城中も、砲弾が本丸に届くようになり、慌てて
四斤山砲を豊岡に設置
八重の夫(入城前に既に離縁していたとの説もあり)
川崎尚之助(会津では一般にしょうのすけと読んでいます)
と八重が応戦しました。四斤山砲は射程1km
この砲の仰角を上げ 火薬の量を増やし 小田山山頂まで届かせ
一時は小田山上の砲門を沈黙させたそうです
いずれにしても 小田山をやすやすと西軍に占拠されたことは
会津軍にとって 十六橋の要害を失ったのに次ぐ大失策でした
今日はもうひとつ どうしてもお話ししたい人のお話しがあります。
その②へ続く