前日 母成峠を破られ
西軍は勢いそのまま 会津に進軍を進めています
そして 144年前の今日 慶応四年八月二十二日は
各地の状況がめまぐるしく動いた日でした
★白虎隊に登城命令が出され、少年達は、意気揚々と鶴ヶ城に登城しました
この少年達の中には、家が隣だった八重さんから、鉄砲の手ほどきを受けた
士中二番隊 伊東悌次郎少年(十五才)もいました。
★日光口を守備していた山川大蔵隊は、田島を退陣し、若松に向かい出発しました
他にも各地で藩境を守っていた隊が続々と若松へ帰城するために出発しました
★猪苗代城主は、とうてい西軍を防ぎきれないと考え
城と士津神社に火をかけて退却しました
↑士津神社 ↓会津藩祖 保科正之公 墓
そして
★猪苗代湖から流下する日橋川に架けられた『十六橋』を落とし
西軍の行軍を止めようとした会津軍でしたが
あまりにも頑丈なこの橋を落とすことが出来ず、
この橋を西軍に占領されてしまいました
東軍側(左)西軍側(右)から見た十六橋
今は五代目だそうです(戊辰戦争時は二代目だったそうです)
その頃 会津藩主『松平容保公』は
鶴ヶ城を出陣 滝沢本陣に向かいました
藩主出陣の先乗りに『家老 佐川官兵衛』
護衛に『白虎隊 士中一番隊、士中二番隊』が付きました
そして 容保公 滝沢本陣に到着
本陣に到着した容保公の耳に飛び込んできた急報は‥
十六橋が西軍の手に落ち、既に強清水(こわしみず)近く
戸ノ口原まで進撃しているとの報でした
(戸の口原:猪苗代と若松との間にある。広大な平原)
兵が足りない‥
容保公は 十五~十七才の少年部隊
『白虎隊 士中二番隊』に 戸の口原出撃の命を下しました
『こんな子供まで戦に出さねばならないのか‥』
白虎隊の出撃を決断した容保公の心中は
さぞ辛く苦しかったと思います‥
かくて、白虎隊士は 滝沢本陣から戦地
戸の口原に向かって出発しました
以上 144年前の今日の主要な動きでした