会津 白虎隊の歴史に深くかかわります、飯盛山へ行ってきました。
飯盛山入り口に位置する『白虎隊の歴史』が書かれていました。
白虎隊のことをあまり分からなくてもこちらを見ると理解できます。
白虎隊については最後のほうに載せますので、興味のある人はぜひ最後までご覧下さい。
飯盛山の入り口です。
お店を過ぎると長い階段が見えてきます。
そこを通り上がっていくと『白虎隊記念館』があります。
記念館には、写真や実際に戊辰戦争で戦ったときの遺品などが沢山展示してあります。
当時の様子が伺えます。
右側の犬と少年の写真ですが、退却のときに仲間とはぐれてしまい、山を歩いていた時に愛犬のクマと再開した時の様子だそうです。この酒井さんは付近の農家の方に助けられ、農家の家でマゲを切りおとし農家の格好をしながら、2日かけて鶴ヶ城へ向かったそうです。当時の少年は、そこまで会津を思う気持ちが強かったのですね。(案内の方にお聞きした情報です。もしかしたら一部違っている事もあるかもしれません)
階段がとても長いので、動く歩道があります。有料で大人250円 頑張って上ってダウンしたらら途中からも乗れます。嬉しいかも!
白虎隊が自刀して果ててしまった場所。少年が遠くに見える鶴ヶ城を望んでいます。今と昔では景色は違うけれど、
望んでいる鶴ヶ城は一緒なんでしょうね。
銅像が向いている方角、ここからしっかりと鶴ヶ城が見えました。
彼らはどんな想いで鶴ヶ城を眺め、そして散っていったんでしょうか。
こちらは唯一の生存者だった『飯沼貞吉さん』のお墓です。奇跡的に一命を取り留めたものの生き残った飯沼は”武士としての最後を遂げずに生き恥をさらした”と、他の白虎隊のお墓とは離れた所にお墓が作られたそうです。
一人だけ助かってしまい、会津には住む事が出来なかったため、せめてもの想いで家族に「もし会津の方が迎えてくれれば遺髪と義歯を会津に贈ってもよい」とだけ言ったという。その思いが伝わり、戊辰戦争後90年祭(昭和32年亡くなってから26年後)を迎えようやくかつての仲間たちの傍に来れたとの事です。すごく物悲しい話です。
現代からすれば生き残れて良かったと思う話ですが、その当時の状況では生き残って幸せだったのか・・・やるせないですね。
白虎隊の遺骨は、西軍により手をつける事が出来なかったそうです。ですが、それを可哀想に思った村人が密かに近くの妙國寺に運び込み仮埋葬し、後にこちらに埋葬されました。
こちらが会津の各地で戦い亡くなった白虎隊19人のお墓です。 お線香の香が絶える事はありません。
こちらのお墓は、白虎隊と同じ年齢で県内各地・新潟・栃木・京都で戦死した会津藩少年武士の慰霊碑です。子供のいる私は、とても胸が痛みました。子供を戦争に出したくなかっただとろうと思う親の想いと、その願いが叶わなかった時代背景とが複雑に交差した事を考え目頭があつくなりました。
飯盛山をまわり、色々な想いを抱きながらもと来た階段を下りていきました。 この”綺麗な景色”を、そして”現代の会津”を彼らは自分たちで守りたかったんだろうなと思いながらこの地を後にしました。
『白虎隊』
<日新館の勉強>
会津藩の男子は、十歳になると日新館に入学し、勉強に励みます。
ここの生徒は、『生徒の什』というグループを作り、毎日学校から帰ると、勉強や心の修養になる事などを話し合い、お互いに励みあっていました。 そして、小さい子供たちの「遊びの什」というグループの親切な指導に当たります。こうして、会津武士としての優れた素質は自主的に養われていくのでした。
<武道の稽古>
会津は、昔から武道のさかんなところでした。 日新館でもさまざまな武道を学びます。恵子はたいへん厳しいものでしたが、生徒たちは一人も怠ける者がいなく、元気に稽古に励み、いつも道場いっぱいに声を響かせていました。 学校の外にも、道場や稽古場が沢山あり、生徒たちにはそういう場所で稽古をするものもいました。こういうさかんな修練によって会津の武士たちは、一ヶ月間も天下の大軍を相手にはなばなしく戦い続けることができたのです。
<急をつげる早馬>
慶応四年(1868年)正月、朝廷から出た倒幕の命令によって、西軍はぞくぞくと東に進み、江戸城の明け渡しにより、三百年続いた幕府政治は終わりを告げました。 東北各藩連合の必死の願いもむなしく、とうとう西軍は会津へと進み、ついに会津も決然と立ち上がることになりました。西軍接近の知らせをもって、早馬が場内に入ってゆきます。
<白虎隊の出陣歎願>
戦争が始まると学校は閉ざされ、生徒たちは教練場で激しい訓練を受けていました。 少年たちは、西軍が国境に迫っていると聞いて、ふるさと会津を自分たちで守りぬこうと心をこめた嘆願書を軍事奉行に差し出しました。 その願いは聞き入れられ、白虎隊は軍事奉行に属する事になり、いっそう訓練に励みました。
<白虎隊士の門出>
八月二十二日の朝、士中白虎隊に集合をかけた回し文がまわってきました。 少年たちは大変喜びました。白虎隊の一人、飯沼貞吉の家では、母は貞吉に戒めの言葉を言い、一首の歌を短冊にこめました。
『梓弓 むかふ矢先はしげくとも
ひきなかへしそ 武士のみち』
子を思う親の心は今も昔も同じ。 しかし当時は武士道の掟として、悲しいまでに厳しく教育されていたのです。
<十六橋の戦い>
母成峠を越えた西軍はいっきに会津領内になだれ込み、猪苗代城に火がつけられ、あっという間に会津へとむかって来たのです。 石筵口の守りが敗れたという知らせを聞き、城中には老人と少年しか残っていませんでしたが、日橋川にかけられた十六橋を落とし、西軍を必死にくい止めようと防戦しましたが、ついに守りは破られてしまいました。
<白虎隊の出陣>
白虎隊の少年たちは滝沢村の本陣に着きました。 やがて戸ノ口の一隊から助けが求められ、いよいよ少年たちは戦場へと出発したのです。吹き付ける風雨に耐え、戸ノ口原の陣地に着き、ここで最後の食事となる握り飯をわけてもらうのでした。
<戸ノ口原の奮戦>
東の空が白み、深くたちこめる朝霧に行く手をふさがれながらも銃声を頼りに丘にたどり着き、戸ノ口村へ近づいてゆくと、人馬の気配を感じました。 少年たちは茂みの中に散開し、合図と同時に一斉に射撃を開始しましたが、西軍の勢いにはかなわず、次第に方位されてしまったのです。
<白虎隊の退却>
次第にせまって来る危機を救うため、少年たちは退却しました。 負傷者をいたわりながらもばらばらになってしまいましたが、二十人ほどの隊士が同じ道を通りました。 そして、「君公を護衛し奉り、城を枕に討ち死にすべきだ」と一決し、若松城下を目指しました。 行く手には敵勢が充満しており、やっとの思いで不動滝に着いても前方にはすでに敵がきていたので、必死で飯盛山へと逃れ、中腹までたどりついたのです。
<飯盛山の自刀>
そこから鶴ヶ城を遠望した時、そこには予想もしなかった光景が広がっていました。 鶴ヶ城が炎と黒鉛に包まれているように見えたのです。命とたのむ鶴ヶ城も最早落城の運命かと思うと、少年たちのむねに悲しさがこみあげてきました。
「今こそ、君公に殉ずべきときです。」
こうして白虎隊の少年たちは、それぞれの思いを胸に、武士として立派に自刃して果てたのです。この少年たちの悲劇は、今でも日本中に語り継がれています。
飯盛山の入り口の案内板より白虎隊をご紹介させていただきました。
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