昨日の八重の桜も
緊迫の籠城戦が繰り広げられました
八月二十九日
長命寺の戦いにおいて
1,000名の精鋭が
米沢に血路を開くために出陣
総督の佐川官兵衛の寝坊という失態もあり
好機を逸した会津は大敗を喫しました
そして九月十四日
新政府軍による鶴ヶ城総攻撃が
この日から始まりました
連日二千発を越える砲弾の嵐に
鶴ヶ城は必死に耐えるのでした…
今回は、緊急のスケッチ紀行をお届けします
時間に限りのある大河ドラマです
全てのエピソードを紹介しきれないのは
仕方ありませんよね
なので、今回のブログは長命寺の戦いから
鶴ヶ城総攻撃までの十五日間について
八重の桜で伝えきれなかった
エピソードについて
スケッチ風画像でご紹介いたします
仙台に向かった土方歳三と袂を分かち
会津に残って共に戦う事を誓った
新選組 斎藤一は
会津北部戦線に向かい出発
新政府軍と連戦し敗れました
この日、九月四日
仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の
中心にいた米沢藩が降伏
会津の孤立は深まりました
新選組は高久村の戦闘に加わるため
若松方面に移動
神指(こうざし)城跡の如来堂に到着しました
話しは一旦飛びます
長命寺の戦いに敗れた佐川官兵衛
城外で反撃のチャンスを待ちます
そこに、先日の関山の戦いに勝利した
新政府軍が本郷から鶴ヶ城南方に
進行してくることを知り
奇襲作戦を計画しました
場所は材木町
兵をひそませて待機
行軍してきた新政府軍に
一斉に攻撃を開始しました
ふいを付かれた新政府軍は
一旦は総崩れとなり 体制を立直す前に
会津軍は新政府軍が遺棄した
鉄砲や弾薬、食糧などを得て
鶴ヶ城に引き返しました
この戦いは
住吉河原の戦い(材木町の戦い)
と呼ばれ、城下で会津が唯一勝利した戦いでした
話しを戻します
住吉河原の戦いと同じ日
慶応四年九月五日
鶴ヶ城の北 如来堂を守っていた
斎藤一率いる新選組十三名は
周囲を三百名の新政府軍に囲まれ…
『今落城せんとするを見て
会津を見捨てるのは誠義にあらず!』
最後まで会津と共に歩んでくれた
斎藤一ら新選組の会津戦線は
ここに幕を下ろしました…
最後まで正確に時を告げることで
新政府軍と戦った 無名の勇士もいました
どんなに砲弾の嵐を浴びようと
毎日正確に時を告げ続けた時守達
開城のその時まで
鶴ヶ城から時を告げる鐘が止むことは
決してありませんでした
この鐘を聞くことにより
城外で戦う藩士達はお城の無事を知り
殿の無事を知り、勇気づけられました
これも会津の意地!
時守達に拍手喝さいです!
そして八重の桜は次週
開城・降伏へと向かっていきます
しっかりと 目をそらさずに
見守ります!