今日は朝から雨の会津
そのおかげで?涼しい朝になりました
今日から3連休の方も多いと思います
今週の暑さで疲れた身体を癒すと共に
楽しい連休でリフレッシュしてくださいね(^-^)
さて、今日は
会津戦争スケッチ紀行をお贈りします
早いもので このスケッチ紀行も
3回目になりました
今回は 前回の小田山の攻防の後
まずは長命寺の戦いからお贈りします
小田山奪還に失敗した会津藩
連日 雨の様な砲弾が
鶴ヶ城めがけて撃ち下ろされています
新政府軍は城の北・東・西
三方を制し わずかに残された南口も
次第に圧迫されていきました
このままでは埒が明かない
城内には 彼岸獅子入城を果たした
山川大蔵隊を筆頭に
国境の守備から戻ってきた
各隊により 戦力は充実しています
そこで城外に活路を開くため
慶応四年八月二十九日明け方に
家老 佐川官兵衛を総督として
精鋭部隊1000名の出撃が決定しました
出陣前夜 容保公から隊員一同を励ますために
お酒がふるまわれ 官兵衛には
容保公の手から政宗の名刀を賜りました
これに感激した官兵衛さん
少し酒をすぎ
連日の戦の疲れも出たのか
酔い潰れてしまい
出陣に寝過ごしてしまいました
予定より遅れて出陣し
新政府軍を長命寺まで追い詰め
途中まで優勢に戦を運んだ会津でしたが
形成は逆転
長命寺に立てこもっていた会津隊は
猛烈な銃撃を浴びて敗退
この長命寺の戦いに破れました
戦死者の中には佐川官兵衛の父
幸右衛門もいました
彼の下着には
慶応四年八月二十九日討死、
佐川幸右衛門直道生年六十三歳
と書かれてていました
佐川官兵衛はこのままでは城には帰れぬと
手勢を引き連れて城外戦へと
身を投じていくのでした
一方城の南側日光口
大内村には新政府軍が陣取っていました
新政府軍は押され 一旦大内峠まで退きますが
翌日には進撃を開始
しかし 東軍の反撃に苦戦し
その日は氷玉峠から進めませんでした
軍艦 中村半次郎が
直接指揮をとって進撃
栃沢~関山と、会津若松の南方
すぐそこにまで軍を押し上げました
会津美里町関山地区には
今も墓があります
会津はますます四方を固められる
ことになりました
以上、次回は住吉河原の戦い
そして 如来堂の戦いに続きます