前回の阿弥陀寺の時
あまり反応が無かったけど
私的には気に入っているので
今回もモノクロシリーズを強行します(^-^)/
今回ご紹介するのは『善龍寺』
会津若松市にある曹洞宗の寺院です
竜宮門(竜宮造り)と呼ばれる
この辺りでは見たことのない珍しい門をくぐり
本堂に到着
静かで落ち着いたたたずまいです
この善龍寺にはとても悲しい
戊辰の跡があります
奈与竹(なよたけ)の碑
この碑の裏面を見ると
会津戦争で亡くなった婦女子のうち
名前が分かる233名の名前が刻まれています
この碑の名前の由来は
鶴ヶ城籠城戦開始日の
慶応四年八月二十三日
味方の足手まといになることを嫌い
自刃することで敵と戦うことを決めた
家老 西郷頼母の妻 千恵子さんの辞世の句
『なよ竹の風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそきけ』
から名付けられています
毎年5月1日に、この碑の前で
慰霊祭が執り行われ、市内高校生による
『女白虎隊』の演舞も奉納されます
さらにお墓を登っていくと
『二十一人之墓』があります
先ほど紹介した西郷家、一族
合わせて二十一名が、西郷邸にて
壮絶な自刃を果たしたのでした
その中には二歳や四歳の娘も含まれています
西郷さんの長女細布子さん(16)(下の句)
と二女瀑布子さん(13)(上の句)
がふたりでつづった辞世
『手をとりてともに行きなば迷はじよ
いざたどらまし死出の山路(やまみち)』
そしてこの寺にはもうひとつの墓があります
まわりの墓よりひときわ小さなこのお墓
『保科八握髯翁 室飯沼千恵子』
西郷頼母さんとその妻千恵子さんの墓です
苦悩に満ちた頼母さんの生涯は
明治36年 会津若松市の十軒長屋で
74年の時を経て閉じられました‥
寂しい最期でした‥
彼の辞世
『あいづねの遠近人に知らせてよ
保科近悳今日死ぬるなり』
いまだに歴史の評価が分かれる頼母さん
彼が残したとされる下の言葉に
その答えの一部が埋まっているのかもしれません
『中道を行く者の厳しさは
右から見れば左に見え
左から見れば右に見えることである』
~善龍寺~
会津戦争に殉じた多くの婦女子
西郷一族 そして頼母さんに
深く深く合掌‥