梅雨明けの近づきを感じる晴天の今日この頃
今日は 来年の大河『八重の桜』主人公
山本八重子さんと肩を並べる
戊辰 会津戦争の烈婦
『中野 竹子』さんの跡を訪ねてきました
娘子軍隊長 中野竹子(当時22)
会津藩士 中野平内の長女
母 孝子(こうこ)(当時44)妹 優子(当時16)
慶応四年八月二十三日朝
西軍の鶴ヶ城への侵入があまりにも早かったため
入城に遅れた彼女等は照姫様が坂下にいるとの情報を聞き
照姫様をお守りしようと、会津坂下町法界寺に宿泊
二十五日坂下から若松に向かって進軍する
『衝鋒隊(しょうほうたい)』に従軍
『涙橋』において長州・美濃・大垣連合の西軍と激突
上の2枚の写真は 涙橋の近く 竹子殉節の地に建てられた銅像と碑です
竹子は 妹優子に介錯され その首は
法界寺に葬られています
墓碑には『小竹女子之墓』と刻まれています
竹子辞世碑
『武士(もののふ)の猛きこころにくらふれは 数にも入らぬ我が身なからも』![]()
その後娘子軍は無事入城を果たし
城内にて大いに活躍しました
また、入場後、竹子の母 孝子さんは八重さんに
『何故 娘子軍に入らなかったのですか?』
『私は鉄砲で戦う考えでおりましたので』
というような会話があったと聞きます
その後会津は九月二十ニ日朝、ついに開城・降伏
その後も会津の苦難は続いていくことになります
法界寺 竹子さんのお墓の横に
この様な句が飾られていました
この句の作者『高蘭子』さんは天理市に住む
『中野優子』さんのひ孫さんだそうです
いくつか詠んでみたいと思います
わが母のそのまた母の母たちが 戦ひし野ぞ吾娘とめぐれる
われを抱き頬寄せまししおほははの 息かと思ひぬ会津の風は(大母:優子)
