幕末へタイムスリップ9/5~材木町の戦い そして新撰組殉難‥如来堂の戦い

幕末戊辰 会津戦争へのタイムスリップ

144年前の今日 慶応四年九月五日

今日は ふたつの戦いにタイムスリップ

★会津唯一の勝利!材木町の戦い

八月二十九日の長命寺の戦いに敗れた

鬼カン 佐川官兵衛

多くの兵を鶴ヶ城に帰還させ

自分は手兵を連れて城外に本営を置き

次の機会を待っていました

そこに 先日の関山の戦いを勝利した西軍が

本郷から鶴ヶ城南方に侵攻しようとしていることを知り

西軍に対する奇襲作戦を計画

材木町の秀長寺・住吉神社や近隣の民家に自軍の兵を

隠れさせ 西軍の到来を待ちました

120725秀長寺入口.JPG

120901住吉神社3.JPGそして、144年前の今日 正午頃 本郷を後にして若松城下に

進軍してきた西軍が通過しようとした時 砲撃開始

それを合図に会津軍は一斉に起ち 攻撃しました

120901住吉神社戦闘地.JPGふいを付かれた西軍は 驚愕しました

右往左往に狼狽し 一旦は総崩れ

しかし 時間が立つにつれ 兵力の優勢な西軍は

威力を回復してきたので

鬼カン ここが引き時と 攻撃を中止

西軍が遺棄した鉄砲・弾薬・食糧などを得て

日没前に城中に引き上げました

120901戦勝地看板.JPGこの戦い 城下における戦闘の中で

唯一の会津の勝利でした!

あっぱれ鬼カン!!!

★新撰組最後の日 如来堂の戦い

所はかわり この日の喜多方

前日の木曽の戦いに敗れた 斎藤一の新撰組

この日 高久村の戦闘に向かうため 若松方面へ出発

衝鋒隊が守る 如来堂へ到着しました

120630如来堂2.jpg

しかし衝鋒隊はその頃塩川に出向き

如来堂に集まったのは 新撰組だけでした

わずか十三名の新撰組

そこを 待ち構えていた

西軍三百余りに取り囲まれてしまい‥

120829如来堂斜め.JPG

たった十三名で周囲を囲む西軍に突撃血戦

結果はいいません‥

新撰組最後の戦いでした‥

更なる戦いの地を求め 函館に向かった

土方歳三に対し斎藤一は

『落城せんとするを見て 志を捨て去る、誠義にあらず』

 と 会津に残ることを決意しました

そして‥会津への義を貫き通し

最後まで会津と共に戦ってくれた

斎藤一ら新撰組の会津戦線は

ついにここに幕を閉じました

120829如来堂夕日バック.JPG 今でも残る如来堂

120829如来堂拡大.JPG新撰組隊士の血が染み込んだ

田園の中にぽつんとたたずむ聖地

この場所は 今も会津を見つめてくれています

会津における新撰組の戦いは

この日で終焉しました。。。

120829如来堂田園バック.JPG

 斎藤一はこの如来堂の戦いで

殉難を何とか逃れました

そして その後の会津戦争でも、開城後まで

ゲリラ戦を戦い抜いたと伝えられています

でも 私の中では

『新撰組三番隊組長 斎藤一』は

会津戦線『新撰組隊長 斎藤一』は

この如来堂の戦いで 終焉を迎えたと思っています

 144年前の今日 慶応四年九月五日

会津の友 新撰組は如来堂に散りました

斎藤さんもきっと見た 如来堂から眺める夕日です‥

120829如来堂風景.JPG

その後の彼の活躍は

会津藩士『山口次郎』の戦い

会津戦争終了後、『山口次郎』は

藤田五郎と改名 松平容保公の媒酌により

高木時尾と結婚

西南戦争では 薩摩討伐の警察隊として参加

大いに 活躍をしました

謎も多いこの方は 72歳で亡くなった際

床の間で正座をしながら往生したとも言われています

斎藤一

新撰組 三番隊組長 副長助勤 撃剣師範

会津戦争時 新撰組 隊長

沖田総司 永倉新八と肩を並べる

新撰組きっての剣客

断末魔にあえぐ会津を見捨てることは出来ず

最後まで『義』を尽くすことを『誠』といってくれた武士

彼の墓は 現在 会津若松市 阿弥陀寺にあります

九月二十二日に この寺で『斎藤一忌』が行われます

120721斎藤一墓.JPG

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