蒲生氏郷は会津の基礎を作った文武両道に優れた名将でした。 そのため、会津の人には深く愛されていたに違いありません。
「興徳寺入り口」
会津若松市内、神明通りの奥まった場所に興徳寺というお寺があります。
その構内にひっそりと『蒲生氏郷公』のお墓がありました。
この興徳寺は、豊臣秀吉が会津へ来たときに三泊したほどの大きな寺院だったそうです。(歴史上の武将が会津に来て泊まっていたとは全然知りませんでした。)
蒲生氏郷がなくなり、京都の大徳寺の本墓に納められていましたが、いつのころかそこから分骨したものと言われています。
歌碑には、『限りあればふかねど花は散るものを心短き春の山風』とあります。
案内板「蒲生氏郷の墓」
天正18年(1590年)天下統一を果した秀吉は信長にも仕えた戦国武将の蒲生氏郷を奥羽の押さえとして会津に封じた。
氏郷は黒川と言ったこの街を郷里(滋賀県日野市)の森の名にちなみ『若松』と名づけた。 また鶴ヶ城や城下町を整備し、漆器産業を植え付け文化興隆にも力を注いだ。
しかし会津の領主となってわずか5年後に文武両道に秀でた氏郷も病のため京都で不帰の人となった。広隆寺の五輪塔には遺髪が収められ、辞世の歌碑もたっている。
蒲生氏郷は、織田信長・豊臣秀吉に使えとても剛胆な器量に『我が後継者』と思わせるほどだったと言われるが、その名はあまりしられていません。
禄11年(1568年)十三歳で信長の元へ人質として出された時に一目で非凡さを見抜き気にいられ、翌永禄12年には信長の娘「冬姫」を氏郷と結婚させている。
また、若年ながら武将の列に加えたといわれていましたが、 四十歳という余りにも若い死に氏郷の器量に恐怖を覚えた秀吉に謀殺されたという説もあるくらいです。
天正18年(1588年)会津へ移り、九十二万石の大守となっていますがわずか8年間で六万石から九十二万石に昇進するというのは他に類をみません。
とても凄い武将だったのですね。
この日、ちょうど修学旅行の子供たちが訪れていました。
一心に手を合わせていましたよ。
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