『会津歴史紀行』
今年最後の訪問は やはり
幕末~戊辰戦争~に想いをよせて
訪ねてきました
まず、訪れた先は猪苗代町
士津神社(はにつじんじゃ)
会津藩祖『保科正之公』の墓です
徳川二代将軍 秀忠の子であり
保科家の養子となった彼は寛永20年7月
会津23万石の地を与えられました
会津藩の幕明けです
正之公の時代は、幕末とはほど遠いのですが
彼の定めた家訓十五条の第一条
~将軍家への絶対的な忠勤~を示すこの訓が
後の九代藩主 松平容保公が 家臣達の反対を押し切り
京都守護職の任を拝命する大きなきっかけとなっています
そういう意味でも この紀行の出発点は
正之公の墓を迷わず選びました
ここで参拝してから 西へ‥会津若松へ向かいました
途中、猪苗代湖 長浜 には、白鳥が 冬の使者ですね
猪苗代湖を背にし 向かった先は『戸ノ口原古戦場跡』
鳥羽伏見の戦いに敗れ
会津に戻ってきた松平容保を追うように
攻撃の手を緩めず進軍してくる政府軍に
日橋川 十六橋を奪取され
会津藩最後の防衛線が突破されました
そして、戦いの場が この戸ノ口原に移りました
政府軍2600名余りと最新式の武器の攻勢に
総勢500人程の会津軍は
圧倒的な兵力と火力の差に敵わず
ついに総崩れとなってしまいました
この中に 白虎隊 士中二番隊の少年達もいました
戸ノ口原で敗れた白虎隊士は
猪苗代湖から会津盆地へ通じる疎水の洞門にもぐり込み
飯盛山のふもとに忍び出ました
そして‥あの悲劇の自刃が行われたのでした‥
ここで もう一つの悲劇を紹介します
戦火がいよいよ城下に広がり始めた頃
会津藩家老 西郷頼母(さいごうたのも)一族の
悲惨な最期です‥
京都守護職拝命を強行に反対し
さらには政府軍への恭順を建言した頼j母は
登城差止め蟄居('ちっきょ)の身となっていましたが、
政府軍が城下に侵入して来た今
禁を犯して登城して行きました
頼母を見送った 妻千恵子は
味方の足手まといに なるまいと
2歳の赤子も含め 一族全員
西郷邸で自刃し 果てました
その直後 政府軍が邸内に突入し
この無残な光景を見て呆然となったそうです
このとき、若い娘が一人 まだ死にきれずに
頭をもたげ『敵か味方か』と問い
土佐藩士 中島信行が『味方だ』と答えると
懐剣を差し出したそうです
中島は、懐剣で その娘を介錯し 立ち去ったそうです
善竜寺には 西郷一族二十一人の墓があります
千恵子の辞世
『なよ竹の風にまかする身ながらも、たわわぬ節はありとこそきけ』
この寺には『なよたけの碑』があります
戊辰の役に殉じた、多くの婦女子の偉業を留め
霊を慰めるための碑です
また、会津には あの 新撰組の墓もあります
天寧寺に建てられています
左が 局長 近藤勇の墓
右が 副長 土方歳三の慰霊碑です
戊辰戦争奮闘中 千葉で力つき 捉えられた近藤の
はねられた首が ここ、天寧寺に埋められたと言われています
また 土方は 主戦場が会津になっても 戦いました
そして 会津敗北後は函館に戦いの場を移し
最後まで戦いの人生を選び抜きました
その後、会津は敗北
この戦争の全責任を
家老 萱野権兵衛(かやのごんべい)
が一身に背負い 切腹しました
天寧寺 萱野権兵衛の墓
駆け足で 今回巡った地と その歴史を長々と
お話ししてしまいました
今回の歴史巡りの最後は やはりこの方のお墓
生真面目すぎた 会津最後のお殿様
今でも やっぱり会津のお殿様です
『松平 容保公』の墓
今回のリポートはここまで
皆さんご存知の通り 戊辰戦争には
まだまだ たくさんの 有名人や逸話があります
会津は これから 雪が積もります
雪が溶けたら また いろんな人々やいろんな逸話を紹介するために
また 歩き回ってきますね
今年の歴史紀行は 今回で終わりです
来年も楽しみにねぇ\(^o^)/